捕盗庁から警察へ−続き−
投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/04/28 15:06 投稿番号: [122 / 1329]
当時京城は人口十九万人であったが、警官の数は四千五百名の多数に達し人民四十二人に警官一人という割合でまるで警官で鼻を突くという警官洪水の有様を呈していた。これは当時の要人が警察を爪牙として政権を争ったことと、今一つは情実により人を採用したことなどが因をなしたものである。
又両班、用心の類が警官を爪牙として政権を奪い、富豪をゆすったばかりでなく、当時京城の市中には毎晩のように強盗が横行するのでよくよく調査して見ると、何ぞはからん、中には警官自身が腰の刀で強盗を働いている事実さえ判明した程である。
かくの如く当時の警官は両班、要人の私党たり、強窃盗にも類する手合であったので、丸山顧問は警官の素質と待遇の向上を企図し三十八年三月第一次に一千五百名の警官を整理し、次いで第二次一千人を減じ、これで浮いた費用を残った警官の俸給給与に当てて、生活の安定に資したのであった。
しかして足一歩地方に踏込むとこれは又京城とは全然反対で、警察官というものがいる道もあり、いない道もあり、いる道といえども道内に三、四人いるに過ぎなかった。一道に三人や四人の警官で道の治安を、かりそめにも保ち得ようか?全く無警察状態というのが、当時の地方の偽わらざる状況であった。特に悪いのは、その無警察に乗じ道や郡の小使が警官代理のような仕事をなし、民人を脅迫して自己の懐中を肥し、それを職能と心得るに至っては全く至れり尽くせりの紊乱状態であった。
そこで丸山顧問は京城の警官の整理減少をはかる一方、各道に対しては内地人の警務補佐官(警部又は警視)を配置し、これに数名の巡査をつけて地方警察の改善、否創設に当たらしめたのである。しかし顧問に如何に理想論があっても経費がこれに伴わず容易に所期の改善が行われなかったが、そのうちに例の明治四十年十月から五ケ年にわたる暴徒の蜂起があった。この暴徒鎮圧の必要から警察が非常に重用され、従って充実整備が可なり早く行われたのである山間僻地間の警備電話の如きも、この機に多数架設されこの警備電話は後に公衆にも利用せしめ、現在なお残っているのである。
明治四十年六月第二次の日韓保護条約が締結されるまで、朝鮮にはわが統監府が統轄する所の理事庁警察と、同じ統監府の指揮下にある憲兵と、韓国固有の警察の三つの異った機関が交錯していたのである。その間種々事を醸し面白くない現象も生じたので、総監府の理事庁警察を廃止し、日本人に対しては韓国政府に傭われた日本人の警官が警察事務の執行に当たることになり、ここに警察事務は憲兵と、韓国政府の警察の二つになったのである。
越えて明治四十二年韓国政府は裁判権を日本に委せることになったが、そうすると一寸不便が生じた裁判権のみが日本人に委せられてもその手足となる警察事務は誰がやるかということが問題として残った。まさか裁判は日本でやり、警察は韓国でやるという訳にも行かず、これがため伊藤統監は司法官々制を設け、韓国政府に傭聘されていた日本人の警察官は兼ねて帝国の司法警察官にも任ぜられることになった。
以下省略 全文読みたい方は
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00474375&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00474375
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又両班、用心の類が警官を爪牙として政権を奪い、富豪をゆすったばかりでなく、当時京城の市中には毎晩のように強盗が横行するのでよくよく調査して見ると、何ぞはからん、中には警官自身が腰の刀で強盗を働いている事実さえ判明した程である。
かくの如く当時の警官は両班、要人の私党たり、強窃盗にも類する手合であったので、丸山顧問は警官の素質と待遇の向上を企図し三十八年三月第一次に一千五百名の警官を整理し、次いで第二次一千人を減じ、これで浮いた費用を残った警官の俸給給与に当てて、生活の安定に資したのであった。
しかして足一歩地方に踏込むとこれは又京城とは全然反対で、警察官というものがいる道もあり、いない道もあり、いる道といえども道内に三、四人いるに過ぎなかった。一道に三人や四人の警官で道の治安を、かりそめにも保ち得ようか?全く無警察状態というのが、当時の地方の偽わらざる状況であった。特に悪いのは、その無警察に乗じ道や郡の小使が警官代理のような仕事をなし、民人を脅迫して自己の懐中を肥し、それを職能と心得るに至っては全く至れり尽くせりの紊乱状態であった。
そこで丸山顧問は京城の警官の整理減少をはかる一方、各道に対しては内地人の警務補佐官(警部又は警視)を配置し、これに数名の巡査をつけて地方警察の改善、否創設に当たらしめたのである。しかし顧問に如何に理想論があっても経費がこれに伴わず容易に所期の改善が行われなかったが、そのうちに例の明治四十年十月から五ケ年にわたる暴徒の蜂起があった。この暴徒鎮圧の必要から警察が非常に重用され、従って充実整備が可なり早く行われたのである山間僻地間の警備電話の如きも、この機に多数架設されこの警備電話は後に公衆にも利用せしめ、現在なお残っているのである。
明治四十年六月第二次の日韓保護条約が締結されるまで、朝鮮にはわが統監府が統轄する所の理事庁警察と、同じ統監府の指揮下にある憲兵と、韓国固有の警察の三つの異った機関が交錯していたのである。その間種々事を醸し面白くない現象も生じたので、総監府の理事庁警察を廃止し、日本人に対しては韓国政府に傭われた日本人の警官が警察事務の執行に当たることになり、ここに警察事務は憲兵と、韓国政府の警察の二つになったのである。
越えて明治四十二年韓国政府は裁判権を日本に委せることになったが、そうすると一寸不便が生じた裁判権のみが日本人に委せられてもその手足となる警察事務は誰がやるかということが問題として残った。まさか裁判は日本でやり、警察は韓国でやるという訳にも行かず、これがため伊藤統監は司法官々制を設け、韓国政府に傭聘されていた日本人の警察官は兼ねて帝国の司法警察官にも任ぜられることになった。
以下省略 全文読みたい方は
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これは メッセージ 121 (monju_jz さん)への返信です.
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