李朝朝鮮

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昭顕世子と仁祖

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2008/01/26 00:01 投稿番号: [1096 / 1329]
丙子胡乱での降伏によって瀋陽に抑留されることになった仁祖の長子昭顕世子は、当初生活費などは国許からの仕送りで賄っていましたが、1641年12月22日、清の通訳鄭命寿の強い勧めに従って耕作地を与えられ、身代金を払って返還された朝鮮人や奴隷として売られていた明人を購入して耕作させました。

さらにその収穫物を財貨に交換し、生活費や清の諸将廷臣たちとの交際費をも賄い、館を改築するほどに儲けました。このあたりは崔基鎬のような通俗歴史本でも取上げられ知られてはいます。で、仁祖は賤しい商業に手を染めたとして世子を憎むようになったと書かれてもいます。

しかし、仁祖が世子に対してよくない感情を抱くようになったのはそれだけが理由でもないようです。仁祖実録の仁祖21(1643)年12月22日条によりますと、世子が清将の求めに応じて済州島の白蝋を取り寄せさせたことを民に労苦を強いるものとして怒りました。
また、身代金を払って返還させた朝鮮人(100人以上)を本国に帰さず、耕作や館の雑用に使役していることを知り、世子輔弼の廷臣たちを糾問し更迭し、翌年1月に一時帰国した世子の瀋陽帰還時には、世子が煙たがっていた宦官金彦謙を同行させています。

仁祖実録   仁祖21(1643)年12月22日条
義州府尹洪[王偏に録のつくり]録上正朝使一行人馬之数、而其中有白蝋・網巾等物載運者。上問白蝋・網巾、何処所送耶。備局啓曰去年秋間、侍講院移牒于本司曰被[手偏に虜]公贖人等、竝無網巾、且清人欲得白蝋云、故本司通于済州、将此二件物以来、順付于節使之行矣。上下教曰講官之職、勧学・匡救而已。不此之思、乃敢貽弊於海外之民、事極非矣。当該官員、姑先従重推考。是時、世子久留瀋陽、広建館宇、私殖貨利、酬応清将之求索。又以其贏余、贖得我人之被[手偏に虜]男女、至於累百人、或留止館中、或移䉤野坂、以備使令、皆不許放還本土、不欲使大朝知之。宮僚諫之不従、遂令徴求白蝋・網巾於済州、至是、上始知之、有此教。於是、賓客李昭漢・輔徳柳景緝・文学李袗・司書李正英等、皆被推勘之命、及翌年世子東還、竝命罷職。

仁祖22(1644)年1月19日
王世子及嬪還入瀋陽。命宦官金彦謙、陪世子入瀋陽。彦謙曾侍世子于瀋館、世子如有過挙、則涕泣苦諫、雖遭捶楚、猶不少止、世子深加忌憚、故有是命。
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