日本政府は謝罪、賠償を 1
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/09/05 04:53 投稿番号: [1499 / 2701]
何で日本が謝罪と賠償を?
広島で被爆−在朝被がい者の証言− 日本政府は謝罪、賠償を
「私たちが死ねば解決するのか」
【平壌発=鄭茂憲記者】日本で被爆して解放後、朝鮮に帰国した在朝被爆者たち。これまで放置したまま何もしてこなかった日本政府に対し、謝罪と補償を強く要求している。広島で被爆した3人から話を聞いた。
パク・チョンゴンさん
胎児被爆者のパク・チョンゴンさん(62)。「日本政府の謝罪は母親の恨みを晴らす唯一の方法だ」と語る。
パクさんの家族は、広島県賀茂郡で暮らしていた。「その日、母は偶然、市内に住む親せきに会いに行った。そして、家の前を掃除していて被爆した。太陽が二つできたように見えたそうだ」。
胎児に被爆の影響が出ると、妊娠していた母親に周囲の人たちは出産を諦めるよう勧めたという。「私には3人の姉がいるが、息子がほしかった母は出産を決心した。そして私の胎児被爆を隠すため、被爆で流産した直後に私を妊娠したということにした」。
パクさんの母は長い間、被爆症状に苦しんだという。1949年には、父と三番目の姉が不意の食中毒で死亡した。「母は病気の体に加えて苦しい生活の中で私を育ててくれた」。
60年、当時14歳だったパクさんは、母と一緒に帰国した。
しかし祖国での母との生活は、そう長くは続かなかった。
64年4月、母は胃ガンと白血病を病み53歳で亡くなったのだ。
「当時、私は18歳だった。あの時はガンの恐ろしさがわからなかったし、母の病気もよくなると思っていた。母は入院中、日本で暮らす姉に送ってやろうと病院で写真を撮った。その翌日に亡くなった」
パクさんはそれから10年後の74年に結婚。翌年に長男をもうけたが1歳になる前に死亡した。「脳性麻痺だった。遺伝の影響かもしれないという思いがよぎった。しかし当時、私は胎児被爆者であることを妻にも話しておらず、息子の死亡が私の被爆と関連しているのではないかと、事実を追求するのが怖くて被爆の事実を口にすることができなかった」。パクさんが妻に告白したのは、90年代に入ってからだ。
00年11月、パクさんは母の苦労と自分の体験、そして在朝被爆者の問題解決を要請する手紙を広島市長あてに送った。
しかし翌年2月に送られてきた、広島市役所社会局被爆者対策部調査担当課長からの返信は、何ら誠意を感じることが出来ないものであったという。
パクさんは、日本政府は早急に措置を取るべきだと言う。「年を重ねて貧血がひどくなったが、まだ健康だ。しかし高齢の被爆者たちは一人二人とこの世を去っており、もう身動きができない人も大勢いる。私たちにとっては一分一秒が切実だ。日本は調査だの何だのと言うだけで行動をしない。過去の歴史を直視して、私の母を含む被爆者に謝罪せよと言いたい。誠意を見せない日本政府に言いたいことは山ほどある」
広島で被爆−在朝被がい者の証言− 日本政府は謝罪、賠償を
「私たちが死ねば解決するのか」
【平壌発=鄭茂憲記者】日本で被爆して解放後、朝鮮に帰国した在朝被爆者たち。これまで放置したまま何もしてこなかった日本政府に対し、謝罪と補償を強く要求している。広島で被爆した3人から話を聞いた。
パク・チョンゴンさん
胎児被爆者のパク・チョンゴンさん(62)。「日本政府の謝罪は母親の恨みを晴らす唯一の方法だ」と語る。
パクさんの家族は、広島県賀茂郡で暮らしていた。「その日、母は偶然、市内に住む親せきに会いに行った。そして、家の前を掃除していて被爆した。太陽が二つできたように見えたそうだ」。
胎児に被爆の影響が出ると、妊娠していた母親に周囲の人たちは出産を諦めるよう勧めたという。「私には3人の姉がいるが、息子がほしかった母は出産を決心した。そして私の胎児被爆を隠すため、被爆で流産した直後に私を妊娠したということにした」。
パクさんの母は長い間、被爆症状に苦しんだという。1949年には、父と三番目の姉が不意の食中毒で死亡した。「母は病気の体に加えて苦しい生活の中で私を育ててくれた」。
60年、当時14歳だったパクさんは、母と一緒に帰国した。
しかし祖国での母との生活は、そう長くは続かなかった。
64年4月、母は胃ガンと白血病を病み53歳で亡くなったのだ。
「当時、私は18歳だった。あの時はガンの恐ろしさがわからなかったし、母の病気もよくなると思っていた。母は入院中、日本で暮らす姉に送ってやろうと病院で写真を撮った。その翌日に亡くなった」
パクさんはそれから10年後の74年に結婚。翌年に長男をもうけたが1歳になる前に死亡した。「脳性麻痺だった。遺伝の影響かもしれないという思いがよぎった。しかし当時、私は胎児被爆者であることを妻にも話しておらず、息子の死亡が私の被爆と関連しているのではないかと、事実を追求するのが怖くて被爆の事実を口にすることができなかった」。パクさんが妻に告白したのは、90年代に入ってからだ。
00年11月、パクさんは母の苦労と自分の体験、そして在朝被爆者の問題解決を要請する手紙を広島市長あてに送った。
しかし翌年2月に送られてきた、広島市役所社会局被爆者対策部調査担当課長からの返信は、何ら誠意を感じることが出来ないものであったという。
パクさんは、日本政府は早急に措置を取るべきだと言う。「年を重ねて貧血がひどくなったが、まだ健康だ。しかし高齢の被爆者たちは一人二人とこの世を去っており、もう身動きができない人も大勢いる。私たちにとっては一分一秒が切実だ。日本は調査だの何だのと言うだけで行動をしない。過去の歴史を直視して、私の母を含む被爆者に謝罪せよと言いたい。誠意を見せない日本政府に言いたいことは山ほどある」
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