生い立ち(南朝鮮側の考察ですけど)2
投稿者: jgeilsbandfreek 投稿日時: 2006/11/05 07:27 投稿番号: [12 / 2701]
日本への反発が高まる中、李は数千人の群集の前で、こう叫んだ。
「二〇〇〇万の同胞の中の一千九百九十九万九千九百九十九人がみんな死んだ後、自分一人になっても首を高く上げて進むことを、めいめいが心に深く誓い、千万回誓おう。そうして、この国が外国からの侵略のない自主独立の国家として、堅固な磐石の上に築こう」
九八年、自らが委員を務めた「独立協会」幹部と反政府デモをしているところを逮捕、投獄される。デモの組織、扇動したというのが罪名だった。漢城刑務所に送られ、二四歳から五年七カ月年間監獄生活を送り、三〇歳の時ようやく釈放された。
監獄の中で、キリスト教に改宗し、監獄署長の許可を得て、監獄の仲間にも布教を始め、四〇人をクリスチャンに改宗させた。英語で書かれた新訳聖書を学んだ。外国の宣教師が差し入れてくれた和英辞典をもとに、始めての韓英辞典作りに取り組み、釈放されるまでに約三分の一にあたるFまで完成させていた。逆境でも希望を失わない李の性格を表している。
李は、釈放後の〇四年、仁川港からハワイ行きの移民船に乗り、渡米した。投獄前にすでに結婚していた。一人息子の鳳秀は、李を頼って訪米するが、一九〇六年二月に、フィラデルフィアでジフテリアにかかり亡くなるという悲運に見舞われた。
李は〇五年から一〇年にかけてキリスト教関係者の支援を受けて、五つの大学に通った。〇七年から二年間かけて通ったジョージワシントン大学では、英語、経済学、歴史学などを選択したが、成績は目立つ方ではなく、平均Cだった。
その後李は、ハーバード大学からプリンストン大大学院に進み、哲学の博士号を取得。
政府高官に直接会い、韓国の独立に手を貸すよう呼びかける一方、現地の教会などで韓国の独立を訴える演説を教会などで百七十回も飽くことなく繰り返し、口演料を学費に充てた。
プリンストン大学院を終えて、進路に迷っている李に、ソウルのYMCAが「韓国人総務」として職場をの提供を申し出た。月給の一部を前借りし、旅費を工面した。李は一〇年の九月三日、ニューヨークから船でロンドンを目指して船出した。その日は、日韓併合条約が結ばれ、交付されてから四日目に当たった。一週間船でロンドンまでたどり着き、そこからパリ、ベルリン、モスクワを経て母国についたのは約一月後の十月十日だった。が、妻とは性格の不一致のため、帰国後まもなく離婚した。
帰国して一年しかたたない十一年、李は再び祖国を後にし、米国に渡ることになった。それは、当時起きた「一〇五人事件」のためだった。これは、朝鮮支配を強めていた日本の朝鮮総督府の寺内総統の暗殺を図った学生一〇五人に死刑が宣告された事件で、李も関与したのではないかと疑われたからだ。この時も教会関係者の協力で逮捕は免れた。米国に向かう途中では日本に立ち寄り、下関、京都、東京を観光。鎌倉で開かれた韓人学生大会にも参加している。
結局、韓人が多く移住していたハワイに居を構えることにし、一三年二月からホノルルにあるコテージに住み始める。キリスト教関係の学校に勤務しながら、独立運動を続けていたが一九年三月一日、祖国で日本の統治に反対する「三・一独立運動」が起きたことを知らされる。
そして、長年の独立運動への功績が認められ、上海に作られた大韓民国臨時政府の初代大統領に選ばれる。二〇年十二月から半年間、上海に密航する。この時には、中国人の服を着てお棺に入り、密航したエピソードは有名だ。
ただ、米国滞在中、朝鮮を米国の委任統治とするよう米側に働きかけていたことが発覚し、思わぬ非難も浴びた。帰国後の記者会見では、まず英語で所信を表明、その後韓国語を使った。
周囲の反対を押し切って五九歳で、三九歳のオーストリア人のフランチェスカ・ドナーと国際結婚した。ドナーはドイツ語、英語、フランス語に通じ、タイプもできたドナーは、李の秘書となり、彼の国際舞台での行動を助けた。四五年、終戦に伴い、ワシントンから帰国し、四八年大韓民国初代大統領に選出された。
国は疲弊し、北朝鮮からは二百万を超える避難民が押し寄せ、国内では左派、右派が激しく対立していた。独立の混乱から立ち直っていなかった韓国にとって、米国の名門大学で学び、独立運動家としても華麗な経歴をもつた白衣の老人は、国民を統合させることのできる唯一の人物と見なされた。
わからない・・・
7年〜9年はまだ大学でしかも平均がC。
それがなぜ、10年に哲学博士号をとれるんだ?
「二〇〇〇万の同胞の中の一千九百九十九万九千九百九十九人がみんな死んだ後、自分一人になっても首を高く上げて進むことを、めいめいが心に深く誓い、千万回誓おう。そうして、この国が外国からの侵略のない自主独立の国家として、堅固な磐石の上に築こう」
九八年、自らが委員を務めた「独立協会」幹部と反政府デモをしているところを逮捕、投獄される。デモの組織、扇動したというのが罪名だった。漢城刑務所に送られ、二四歳から五年七カ月年間監獄生活を送り、三〇歳の時ようやく釈放された。
監獄の中で、キリスト教に改宗し、監獄署長の許可を得て、監獄の仲間にも布教を始め、四〇人をクリスチャンに改宗させた。英語で書かれた新訳聖書を学んだ。外国の宣教師が差し入れてくれた和英辞典をもとに、始めての韓英辞典作りに取り組み、釈放されるまでに約三分の一にあたるFまで完成させていた。逆境でも希望を失わない李の性格を表している。
李は、釈放後の〇四年、仁川港からハワイ行きの移民船に乗り、渡米した。投獄前にすでに結婚していた。一人息子の鳳秀は、李を頼って訪米するが、一九〇六年二月に、フィラデルフィアでジフテリアにかかり亡くなるという悲運に見舞われた。
李は〇五年から一〇年にかけてキリスト教関係者の支援を受けて、五つの大学に通った。〇七年から二年間かけて通ったジョージワシントン大学では、英語、経済学、歴史学などを選択したが、成績は目立つ方ではなく、平均Cだった。
その後李は、ハーバード大学からプリンストン大大学院に進み、哲学の博士号を取得。
政府高官に直接会い、韓国の独立に手を貸すよう呼びかける一方、現地の教会などで韓国の独立を訴える演説を教会などで百七十回も飽くことなく繰り返し、口演料を学費に充てた。
プリンストン大学院を終えて、進路に迷っている李に、ソウルのYMCAが「韓国人総務」として職場をの提供を申し出た。月給の一部を前借りし、旅費を工面した。李は一〇年の九月三日、ニューヨークから船でロンドンを目指して船出した。その日は、日韓併合条約が結ばれ、交付されてから四日目に当たった。一週間船でロンドンまでたどり着き、そこからパリ、ベルリン、モスクワを経て母国についたのは約一月後の十月十日だった。が、妻とは性格の不一致のため、帰国後まもなく離婚した。
帰国して一年しかたたない十一年、李は再び祖国を後にし、米国に渡ることになった。それは、当時起きた「一〇五人事件」のためだった。これは、朝鮮支配を強めていた日本の朝鮮総督府の寺内総統の暗殺を図った学生一〇五人に死刑が宣告された事件で、李も関与したのではないかと疑われたからだ。この時も教会関係者の協力で逮捕は免れた。米国に向かう途中では日本に立ち寄り、下関、京都、東京を観光。鎌倉で開かれた韓人学生大会にも参加している。
結局、韓人が多く移住していたハワイに居を構えることにし、一三年二月からホノルルにあるコテージに住み始める。キリスト教関係の学校に勤務しながら、独立運動を続けていたが一九年三月一日、祖国で日本の統治に反対する「三・一独立運動」が起きたことを知らされる。
そして、長年の独立運動への功績が認められ、上海に作られた大韓民国臨時政府の初代大統領に選ばれる。二〇年十二月から半年間、上海に密航する。この時には、中国人の服を着てお棺に入り、密航したエピソードは有名だ。
ただ、米国滞在中、朝鮮を米国の委任統治とするよう米側に働きかけていたことが発覚し、思わぬ非難も浴びた。帰国後の記者会見では、まず英語で所信を表明、その後韓国語を使った。
周囲の反対を押し切って五九歳で、三九歳のオーストリア人のフランチェスカ・ドナーと国際結婚した。ドナーはドイツ語、英語、フランス語に通じ、タイプもできたドナーは、李の秘書となり、彼の国際舞台での行動を助けた。四五年、終戦に伴い、ワシントンから帰国し、四八年大韓民国初代大統領に選出された。
国は疲弊し、北朝鮮からは二百万を超える避難民が押し寄せ、国内では左派、右派が激しく対立していた。独立の混乱から立ち直っていなかった韓国にとって、米国の名門大学で学び、独立運動家としても華麗な経歴をもつた白衣の老人は、国民を統合させることのできる唯一の人物と見なされた。
わからない・・・
7年〜9年はまだ大学でしかも平均がC。
それがなぜ、10年に哲学博士号をとれるんだ?
これは メッセージ 11 (jgeilsbandfreek さん)への返信です.
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