李承晩

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生い立ち(南朝鮮側の考察ですけど)1

投稿者: jgeilsbandfreek 投稿日時: 2006/11/05 07:22 投稿番号: [11 / 2701]
  李は、一八七五年黄海道平山郡馬山面陸内洞という農村に生まれた。三男、二女の末っ子だった。李朝三代国王の「太宗」の兄「譲寧大君」の十六代目の血統とされる。血筋はよかったが、家は没落しており、貧しい生活を強いられた。それが彼に、独善に近い、強いエリート意識と、四民平等や民主主義への関心を生み、その後の李の人生を決めていく。
  李の父は、李尊善といい、風水地理に詳しいソンビ(在野の学者)だった。母は、金海金氏で、篤実な仏教信者だった。当時、女性としてはめずらしく「千字文」を教え、詩作もしていたという。李の小さい頃の名前は「承龍」だった。母親が龍の夢を見て出産したからという。朝鮮半島では、龍の夢をありがたがる。
  翌七六年、朝鮮は日本との間で江華島条約を結び、鎖国を解いた。外国と結んだ最初の近代的条約だったが、朝鮮居留の日本人に対する司法権を放棄するよう求めており、不平等な内容だった。その後、要衝の地に位置する朝鮮は、各国と同様の条約を結び、列強の勢力争いの中に巻き込まれていく。
  李は三歳の時、ソウルに転居した。父親が息子の教育を考えたからだった。六歳の時目の病気にかかり、西洋人の医師の治療を受けた。これが、李が外国人と会う最初の経験だった。
  十一歳から十年間、「桃洞書院」という学校で儒教を学んだ。この書院は、現在、ソウル駅の脇に立つヒルトンホテルの近くにあった。書院の教師は朝鮮伝統の「頭冠」にキセルをくわえていた。貴族階級である「両班」の伝統をそのまま受け継いでいた。李はここで「四書五教」の暗記などに取り組む。一八歳までに中国古典の暗記をすべて終えてしまった。周囲からは、出世コースである科挙への合格を期待されたが、勉強に身が入らず、落第を繰り返した。
  一八九四年に起きた「日清戦争」を見て、西洋の学問の必要性を痛感。二十歳になると、ソウルで初と言われるコンクリート造りの建物「培材学堂」に入学した。米国人宣教師が創設したこの学校で、英語とキリスト教を学ぶ。英語力を付けるために、学校新聞の主筆も務めた。入学一年後には、同校の英語教師に抜擢された。英語を通して、李は米国の民主主義に目覚める。朝鮮の人たちが習慣としていた頭のまげを切り落としたのもこのころのことだ。まげは、「親から受けついた体を勝手に傷つけてはいけない」とする儒教の教えに基ずくものだった。
  当時の韓国国内は、党派が入り乱れて反目し、統制が取れなくなっていた。李は二二歳のころから、新聞や会報を通じて、当時の最高権力者・高宗の保守的な政権運営を辛辣に批判、国民に愛国心を訴えた。
  1895年10月8日未明、日清戦争後に駐朝鮮公使になった三浦梧楼陸軍中将は、国王高宗の妃である閔妃の殺害計画をたて、王妃を殺害した。これを乙未(ウルミ)事変という。もともと閔妃一派がロシアに接近しようとしたためにそれを、阻止しようとして起きた事件でしたが、閔妃の遺体を松林へ持っていき焼きすてた。

2に続きます。
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