騒がなければわかってもらえない社会1
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2009/11/12 12:27 投稿番号: [42 / 1030]
【コラム】騒がなければわかってもらえない社会
言葉の汚いネット上の大学受験対策講義
他人を傷つける表現
礼儀正しく、丁寧な話し方は韓国社会から追放された美徳なのか。
ある日、高校生の娘が独り言のように話した。「なぜインターネット上で講義を行う講師たちは皆あんなに口が悪いの? それでこそ講義がうまいといわれると思っているのかしら。その講師の講義がうまいという書き込みが多いけど、私は一度講義を聞いて言葉の汚さに、もう聞きたくないと思ったほどなのに…」とつぶやいたのだった。
インターネットに慣れていない人として、それは驚くべきことで、なじみのないことだった。ネット上の弊害といえば、猥褻(わいせつ)な画像、賭博、違法なサイトなどが問題だとばかり知っていて、修学能力試験(日本のセンター試験に相当。修能)を準備する生徒を相手に講義を行う講師が下品な言葉遣いをするということは想像もできずにいたからだ。
講義の内容さえ良ければ、いや成績にプラスにさえなるのなら、方法は問題にならないと考え、そうした講義が堂々と行われていたことに驚いた。
そういえば自分もそうした疑念を抱いたことが結構あった。ヒットする映画にはどうしてあんなに悪口や暴力があふれているのか。テレビの人気芸能番組はなぜ他人を傷つけ、苦しめながらひきつり悪いさせようとするのだろうか。探訪番組のレポーターはなぜ皆同じように、大げさな声とオーバーなジェスチャーでインタビューするのだろうか。なぜニュース番組のキャスターは皆同じように、悲壮なほど固い表情と激高した語調で話すのだろうか。なぜ自然な姿を壊さなければ視聴者と親しくなれないと考えるのだろうか。丁寧かつ礼儀正しく、自然かつ優しい方法はもう誰も求めない美徳になってしまったようだ。
ある国会議員が国政監査で、暴言を吐く特定芸能人の退出を求め、論議が広がったことがあった。報じられた内容を見てみると、当時、根拠として提示された放送資料には、加虐的笑いを超え、露骨な悪口が収められていた。笑うために作った番組に、そこまで敏感になる必要があるかと言われるかもしれないが、青少年に、ひいては全国民に人気のある番組だから、知らず知らずのうちに及ぼす否定的な効果がかなり大きいことから、国政監査でも問題になったのではないかと思う。最近、米国の人気小説でも、価値観が堕落する主犯に「テレビ、ハリウッド、インターネット」を取りあげている。長所がはるかに多いという点がわかっていないため話しているわけではないだろう。有用性ほど弊害も、直接的かつ大きいという点を思い知らせる指摘だと考える。
また最近はメディア法に対する憲法裁判所の決定について、各種のマスコミが問題点に反論、戯画化したことがあった。それに関する内容の分析はすでに十分あったから、ここで改めて指摘したい考えはない。しかし、当時もある人が憲法裁判所の決定を批判する際「レイプはしたものの、妊娠は有効だというのも同然」という表現を使っていたのを覚えている。その批判の内容を離れ「数多い表現の中から、なぜそんな話し方?」という気がした。人権を叫んでいながら、女権や傷つけられた人への配慮が足りない人々を見ていると、それらの人権への真意についても疑念を抱くようになるのだ。
一時、残酷な児童性暴行への軽すぎる処罰をめぐり、激しい議論が展開された。そのころは連日、類似事件の報道が相次ぎ、国民に、性暴行問題への警戒心を植えつけていた。ところがその時も、報道や記事の内容を離れ、その見出しとして「家族が見る前でひどいこと」「娘を性のなぶりものに」「江南(カンナム)の女性だけ選んで性暴行」「野獣に急変したパパのおかしな愛情表現」といった表現が目障りだった記憶がある。性暴行犯罪者の蛮行に怒ったものの、むしろそうした異常な見出しへの不満がより強まった。社会的な批判や警戒心を高めるため、赤裸々な報道や糾弾が機能しているのかもしれないが、方法にともなう副作用も考えねばならないだろう。だからドラマや報道番組の再現シーンが「犯罪学校」になっているという批判を受けることもあるのだ。
2に続きます。
言葉の汚いネット上の大学受験対策講義
他人を傷つける表現
礼儀正しく、丁寧な話し方は韓国社会から追放された美徳なのか。
ある日、高校生の娘が独り言のように話した。「なぜインターネット上で講義を行う講師たちは皆あんなに口が悪いの? それでこそ講義がうまいといわれると思っているのかしら。その講師の講義がうまいという書き込みが多いけど、私は一度講義を聞いて言葉の汚さに、もう聞きたくないと思ったほどなのに…」とつぶやいたのだった。
インターネットに慣れていない人として、それは驚くべきことで、なじみのないことだった。ネット上の弊害といえば、猥褻(わいせつ)な画像、賭博、違法なサイトなどが問題だとばかり知っていて、修学能力試験(日本のセンター試験に相当。修能)を準備する生徒を相手に講義を行う講師が下品な言葉遣いをするということは想像もできずにいたからだ。
講義の内容さえ良ければ、いや成績にプラスにさえなるのなら、方法は問題にならないと考え、そうした講義が堂々と行われていたことに驚いた。
そういえば自分もそうした疑念を抱いたことが結構あった。ヒットする映画にはどうしてあんなに悪口や暴力があふれているのか。テレビの人気芸能番組はなぜ他人を傷つけ、苦しめながらひきつり悪いさせようとするのだろうか。探訪番組のレポーターはなぜ皆同じように、大げさな声とオーバーなジェスチャーでインタビューするのだろうか。なぜニュース番組のキャスターは皆同じように、悲壮なほど固い表情と激高した語調で話すのだろうか。なぜ自然な姿を壊さなければ視聴者と親しくなれないと考えるのだろうか。丁寧かつ礼儀正しく、自然かつ優しい方法はもう誰も求めない美徳になってしまったようだ。
ある国会議員が国政監査で、暴言を吐く特定芸能人の退出を求め、論議が広がったことがあった。報じられた内容を見てみると、当時、根拠として提示された放送資料には、加虐的笑いを超え、露骨な悪口が収められていた。笑うために作った番組に、そこまで敏感になる必要があるかと言われるかもしれないが、青少年に、ひいては全国民に人気のある番組だから、知らず知らずのうちに及ぼす否定的な効果がかなり大きいことから、国政監査でも問題になったのではないかと思う。最近、米国の人気小説でも、価値観が堕落する主犯に「テレビ、ハリウッド、インターネット」を取りあげている。長所がはるかに多いという点がわかっていないため話しているわけではないだろう。有用性ほど弊害も、直接的かつ大きいという点を思い知らせる指摘だと考える。
また最近はメディア法に対する憲法裁判所の決定について、各種のマスコミが問題点に反論、戯画化したことがあった。それに関する内容の分析はすでに十分あったから、ここで改めて指摘したい考えはない。しかし、当時もある人が憲法裁判所の決定を批判する際「レイプはしたものの、妊娠は有効だというのも同然」という表現を使っていたのを覚えている。その批判の内容を離れ「数多い表現の中から、なぜそんな話し方?」という気がした。人権を叫んでいながら、女権や傷つけられた人への配慮が足りない人々を見ていると、それらの人権への真意についても疑念を抱くようになるのだ。
一時、残酷な児童性暴行への軽すぎる処罰をめぐり、激しい議論が展開された。そのころは連日、類似事件の報道が相次ぎ、国民に、性暴行問題への警戒心を植えつけていた。ところがその時も、報道や記事の内容を離れ、その見出しとして「家族が見る前でひどいこと」「娘を性のなぶりものに」「江南(カンナム)の女性だけ選んで性暴行」「野獣に急変したパパのおかしな愛情表現」といった表現が目障りだった記憶がある。性暴行犯罪者の蛮行に怒ったものの、むしろそうした異常な見出しへの不満がより強まった。社会的な批判や警戒心を高めるため、赤裸々な報道や糾弾が機能しているのかもしれないが、方法にともなう副作用も考えねばならないだろう。だからドラマや報道番組の再現シーンが「犯罪学校」になっているという批判を受けることもあるのだ。
2に続きます。
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