朝P・・・・1
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2013/01/26 10:40 投稿番号: [406 / 415]
朝日新聞主筆・若宮啓文氏「日韓ナショナリズムの危機、メディアの役割重要」
JANUARY 26, 2013 05:02
――韓国との付き合いが長いが。
「1970年に記者になり、1979年に朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の死去直前、防衛庁長官と同行して初めて韓国を訪問した。板門店(パンムンジョム)で北朝鮮が掘った「第3トンネル」を目にし、緊張感の中、日本は平和で幸いだと思った。そして、その平和は多くの犠牲の上に維持されているということを実感した。翌年の1980年、自民党議員らと共に北朝鮮を訪問する機会があった。その時も、北朝鮮側から板門店に行き、正反対の緊張を感じた。これらの経験で、韓半島問題は私の運命という気がした。
留学を決心し、1981年9月にソウルに行った。翌年、日本の歴史教科書問題で反日ムードが起こった。その中で日本について考え、韓国について考えた。その時から今日まで30年以上の歳月が流れた。43年間の新聞記者生活で、4分の3はいかなる形であれ韓半島と関係があった」
――両国は大きく変わった。
「韓国は大きな変化があった。私が初めてソウルに行った時は軍事独裁時期だったが、その後民主化を成し遂げ、同時に非常に速く経済が発展し、社会も発展して今日に至っている。日韓間でもこの10年間でサッカーのワールドカップが共同開催され、日本に韓流ブームが起こるなど、30年前には考えることすらできなかった変化が現れた。まだ様々な問題があるが、国民が仲良くなったという点を実感している。
私が入社した頃は、日本では過激な学生運動が続き、騒々しかった。高度成長期に公害などの様々な問題があったが、社会に活力があった。今は非常に静かな社会になった。高度成長も過激派も消えた。社会は平穏になったが、活力が消えた。一方、中国と韓国は活力が溢れている。それが最も大きな変化だ。日本の未来も心配だ。夢が消えたような感じだ。日本の良い点を自覚し、もっと努力しなければならない」
――韓日関係で感じた点は…。
「心の痛むことがしばしばあった。しかし、やりがいも大きかった。私は日本人として日本社会で育ってきたが、韓国を通じて日本を別の視点で見ることができるようになった。日本という国に対する考えの幅も広がった。祖国を愛するということが、自国だけを愛すればいいということではないということを常に感じている。むろん、韓国も日本に対して誤解と偏見が大きいと感じ、その時は心が痛んだ。どうしてそのような誤解が生じるのかと考えれば、日本をさらに別の角度から見ることができるようになる。そのような意味で、私は一つのレンズで物事を見るのではなく、様々な角度で見る習慣が染みついた。複眼を持てるようになったのだ。さらに、大先輩ら含め大変魅力的な韓国の人々に多く会えたことが、何よりも大きな収穫だった」
――『戦後保守のアジア観』(1995年)、『和解とナショナリズム』(2007年)という著書が今も話題になっている。
「日本とアジアが様々な問題に対して和解を模索しながら、妄言があったり、反日感情が高まって、順調に進まない理由を主に分析した。その理由の一つは、日本の戦争責任者がドイツのように明確に処罰を受けず、戦後に生き残ったという点だろう。それは日本の責任というよりも、冷戦が始まって米国の占領政策が途中で変わったためだ。中国、北朝鮮、旧ソ連などの和解の対象が共産化し、戦後公職から追放された日本の保守政治家が復活した。韓国は共産化されなかったが、李承晩(イ・スンマン)政権で反日感情が高まり、和解が難しくなった」
後は略。
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2013012682388
ば〜か〜
JANUARY 26, 2013 05:02
――韓国との付き合いが長いが。
「1970年に記者になり、1979年に朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の死去直前、防衛庁長官と同行して初めて韓国を訪問した。板門店(パンムンジョム)で北朝鮮が掘った「第3トンネル」を目にし、緊張感の中、日本は平和で幸いだと思った。そして、その平和は多くの犠牲の上に維持されているということを実感した。翌年の1980年、自民党議員らと共に北朝鮮を訪問する機会があった。その時も、北朝鮮側から板門店に行き、正反対の緊張を感じた。これらの経験で、韓半島問題は私の運命という気がした。
留学を決心し、1981年9月にソウルに行った。翌年、日本の歴史教科書問題で反日ムードが起こった。その中で日本について考え、韓国について考えた。その時から今日まで30年以上の歳月が流れた。43年間の新聞記者生活で、4分の3はいかなる形であれ韓半島と関係があった」
――両国は大きく変わった。
「韓国は大きな変化があった。私が初めてソウルに行った時は軍事独裁時期だったが、その後民主化を成し遂げ、同時に非常に速く経済が発展し、社会も発展して今日に至っている。日韓間でもこの10年間でサッカーのワールドカップが共同開催され、日本に韓流ブームが起こるなど、30年前には考えることすらできなかった変化が現れた。まだ様々な問題があるが、国民が仲良くなったという点を実感している。
私が入社した頃は、日本では過激な学生運動が続き、騒々しかった。高度成長期に公害などの様々な問題があったが、社会に活力があった。今は非常に静かな社会になった。高度成長も過激派も消えた。社会は平穏になったが、活力が消えた。一方、中国と韓国は活力が溢れている。それが最も大きな変化だ。日本の未来も心配だ。夢が消えたような感じだ。日本の良い点を自覚し、もっと努力しなければならない」
――韓日関係で感じた点は…。
「心の痛むことがしばしばあった。しかし、やりがいも大きかった。私は日本人として日本社会で育ってきたが、韓国を通じて日本を別の視点で見ることができるようになった。日本という国に対する考えの幅も広がった。祖国を愛するということが、自国だけを愛すればいいということではないということを常に感じている。むろん、韓国も日本に対して誤解と偏見が大きいと感じ、その時は心が痛んだ。どうしてそのような誤解が生じるのかと考えれば、日本をさらに別の角度から見ることができるようになる。そのような意味で、私は一つのレンズで物事を見るのではなく、様々な角度で見る習慣が染みついた。複眼を持てるようになったのだ。さらに、大先輩ら含め大変魅力的な韓国の人々に多く会えたことが、何よりも大きな収穫だった」
――『戦後保守のアジア観』(1995年)、『和解とナショナリズム』(2007年)という著書が今も話題になっている。
「日本とアジアが様々な問題に対して和解を模索しながら、妄言があったり、反日感情が高まって、順調に進まない理由を主に分析した。その理由の一つは、日本の戦争責任者がドイツのように明確に処罰を受けず、戦後に生き残ったという点だろう。それは日本の責任というよりも、冷戦が始まって米国の占領政策が途中で変わったためだ。中国、北朝鮮、旧ソ連などの和解の対象が共産化し、戦後公職から追放された日本の保守政治家が復活した。韓国は共産化されなかったが、李承晩(イ・スンマン)政権で反日感情が高まり、和解が難しくなった」
後は略。
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2013012682388
ば〜か〜