唐人行―その隠れた歴史−3
投稿者: ilkuji_99 投稿日時: 2006/03/28 14:33 投稿番号: [55969 / 60270]
日本女性たちの悲劇はこのときから本格的に始まった。それまでには普通の家庭の女性じゃなく酒場の女か売春婦たちが大部分東南アジアへ渡って行った。なので働く場所が違うだけで本来の職業が水商売だったのでそんなに画期的な変化や副作用は多くなかった。しかしこれからは違う。たとえ卑賎な身分だけど、そういう職業女性を外国に送り商売をしてみたら彼女らが稼いで来る外貨が手強い。それに現地での人気も高く、経済的な収益性を考慮してみたところ、資本なしで商売するには最も美味しい輸出品目だった。そこではじめたのが農漁村の貧民家の娘たちを集めて送ることだった。一日三食解決が難しかった当時の貧農の家庭では娘を都市の家庭に養女で送ったり、金持ちの家に売ったりするケースもあった。しかしお金を稼がせると誘ったりお金何文に売られて来る女だけでは数字があまりにも少なかった。
そこで考案したのが田舎の少女たちを誘拐することだった。日帝時代、韓国少女たちを拉致して東南アジアへ送り軍慰安婦にさせた行為を、日本は既に数十年前、予行練習でもするように自国の女子たちに同じことをさせていたのだ。わずか14、15才の少女たちを誘拐する組織は、先、言及した誘拐に天賦的な材質持ちの文無しののらくらと前科者たちが担当した。そして密航船に乗せて朝鮮はじめ各国に送った。密航船の航海途中、ばれても現地人となんとか喋ると易しく内陸に着けた。このようにして全国的に無差別的行われた貧農家の少女誘拐は当時社会問題になるぶりをしたが、こっそりと消えてしまった。前に出て自分の娘を捜し出すように法に訴える人もいなかった。誘拐直後、娘を探していた親も数ヶ月後にはいつの話かのように無口になった。理由は純然にお金のためだった。ある日突然、前の家、傍の家の娘が消えたとしたら数ヶ月後いくらかのお金が送金して来るからだ。
誘拐され、東南アジアへ売られて行った少女たちが体を売ってもらったお金の一部を送ってくれるのだ。口一つ減らすことだけでも家計が助かった時節、送って来た現金は貧農家にとっては大きく役立った。たまに娘が送ったお金で家や土地を買う農家もあった。それをみてある女の子は「私も早く育って唐人行になり、稼いで家も土地も買ってお母さんを喜ばせようと思った」という。なので絶対的な金の威力の前で誘拐された娘の人格や人生などはどうでも良かった。むしろ羨む家さえあった。そのわけで社会問題になるはずがない。それに誘拐にも条件があり、金持ちの娘、知識女、現在学生身分の女子学生、良家の娘たちは絶対に避けるとの規則らしくない規則があり、誘拐された当事者とその家族は、たとえ問題を提起したくてもその方法さえ知らなかった。
このように専門的な海外人力送出事業で拡張された「女商売」は年月が流れながら毎年増えて一国に数百名、あるいは数千名が送られた。例えばシンガポールの場合、日本女子の数が数千名で全体日本人滞在数の4分の1になるほど多かった。その当時東南アジアで活動した女子たちの正確な統計は出てない。ただし1860年中より第2次大戦(1945年)が終るまで大体2、3万名は十分なっていた事実は広く知られていた。
(続き)
そこで考案したのが田舎の少女たちを誘拐することだった。日帝時代、韓国少女たちを拉致して東南アジアへ送り軍慰安婦にさせた行為を、日本は既に数十年前、予行練習でもするように自国の女子たちに同じことをさせていたのだ。わずか14、15才の少女たちを誘拐する組織は、先、言及した誘拐に天賦的な材質持ちの文無しののらくらと前科者たちが担当した。そして密航船に乗せて朝鮮はじめ各国に送った。密航船の航海途中、ばれても現地人となんとか喋ると易しく内陸に着けた。このようにして全国的に無差別的行われた貧農家の少女誘拐は当時社会問題になるぶりをしたが、こっそりと消えてしまった。前に出て自分の娘を捜し出すように法に訴える人もいなかった。誘拐直後、娘を探していた親も数ヶ月後にはいつの話かのように無口になった。理由は純然にお金のためだった。ある日突然、前の家、傍の家の娘が消えたとしたら数ヶ月後いくらかのお金が送金して来るからだ。
誘拐され、東南アジアへ売られて行った少女たちが体を売ってもらったお金の一部を送ってくれるのだ。口一つ減らすことだけでも家計が助かった時節、送って来た現金は貧農家にとっては大きく役立った。たまに娘が送ったお金で家や土地を買う農家もあった。それをみてある女の子は「私も早く育って唐人行になり、稼いで家も土地も買ってお母さんを喜ばせようと思った」という。なので絶対的な金の威力の前で誘拐された娘の人格や人生などはどうでも良かった。むしろ羨む家さえあった。そのわけで社会問題になるはずがない。それに誘拐にも条件があり、金持ちの娘、知識女、現在学生身分の女子学生、良家の娘たちは絶対に避けるとの規則らしくない規則があり、誘拐された当事者とその家族は、たとえ問題を提起したくてもその方法さえ知らなかった。
このように専門的な海外人力送出事業で拡張された「女商売」は年月が流れながら毎年増えて一国に数百名、あるいは数千名が送られた。例えばシンガポールの場合、日本女子の数が数千名で全体日本人滞在数の4分の1になるほど多かった。その当時東南アジアで活動した女子たちの正確な統計は出てない。ただし1860年中より第2次大戦(1945年)が終るまで大体2、3万名は十分なっていた事実は広く知られていた。
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これは メッセージ 55967 (ilkuji_99 さん)への返信です.