朝鮮の農業/日本人恩人列伝3藤井寛太郎氏
投稿者: monju_jz 投稿日時: 2005/04/11 11:09 投稿番号: [46026 / 60270]
この人スゲー、併合前とはいえ私設裁判所とは。しかも喜ばれたって。
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南に水利・西に干潟 今や美田の謳歌
二十八の青年に燃えた意気! 藤井寛太郎氏
当時二十八歳の藤井寛太郎氏は・・明治三十七年の早春来鮮した、・・・・・
そこで平野として農耕に適した全北に入って農場をつくった、最初手を下したのは一千五百町歩の荒野で予定通り事業を進めたが、当時は統監府も何もない外国であったので種々の不便があった、農場には官辺の保護などなかったから警察、裁判、学校、病院、こうした機構設備までつくり上げた−ということは現在では予想だにつかなぬことであるが
実際裁判事務をあつかったのだ、皮切りに罰則として五十の鞭を与える判決を下した、ところが、原被告とも、この裁判を非常に喜んだ、それは、当時の朝鮮の裁判は賄賂がきき、食費は全部被告もちであったのにわが藤井施設裁判長は、食事を与え、賄賂はとらぬので、そのために喜ばれたのである
これが評判になって、農場の周囲一里ぐらいの人たちは、裁判を願うなら藤井さんへというわけ−さあ事だ最後には痴話喧嘩の裁きまで持込まれて文字通り忙殺されたからである、けれども、こうしたことが民心を和らげ、信望を深めたのだった
例をあげれば限りがないから、この一例にとどめて次に朝鮮につくしたもののうち地方開発の主なるところを拾ってみよう
藤井さんは前記の如く来鮮以来、農事改良や水利開墾に力を尽して群山地方の土地を買収し農業経営に着手すると共に南鮮地方に水利事業を、西鮮地方に干潟地開拓事業等を起し朝鮮産業の開発に貢献してきたが、水利組合では大正四年に着工した大正水利組合がある同七年に完成、更に拡張工事を進め一大貯水地の築造計画をたて百万円を投じ同十一年に着工し、同十三年に完成、現在では一万一千余町歩の灌漑面積を有するに至った、また益沃水利組合及臨沃水利組合の灌漑事業改善を計画して、大正九年に両者を合併、自ら組合長に任じて工事を進捗させ同十一年四月に水路大幹線の延長十八里にわたる大工事とその 付帯工事を完了、併せて外人技師を招いて三年の日月と、二百三十万円の巨費を投じ朝鮮最初の鉄筋コンクリートのダムを使用する大貯水池をつくりあげた
この威力は、大正十三年の大旱魃に際して他の耕地はあわれにも枯死したが、同地だけは青々と生育して凱歌をあげた、更に大正九年足を汀原道にのばして鉄原郡および平康郡の土地を不二興業会社に譲り受けこの高原地帯の不毛の地を開拓して美田と化した、次に同氏にとって忘れられぬことは移民計画であろう西鮮農場の四千五百町歩鉄原農場の同じく四千五百町歩および沃溝農場の一千町歩に朝鮮人を移住させ、また沃溝農場には理想的内地人
農村を建設し大正十三年の第一回移民の如きは当時干潟地を耕作し戸当り四十五石を収穫したものである、爾来引きつづき移民を募集して現在三百五十戸となり全北農場には二百二十三戸の内地人を移住させて不二農村を完成させた
以上土地改良をなした総面積は四万七十余町歩こりに投じた総事業費は三千三百四十二万円に達している、なお大正十五年本府の産米増殖計画の実行に当り
その代行機関として朝鮮土地改良株式会社を創立し専務取締役となったが、この会社は周知の如く国の方針により目的を達して解散してしまい、今は不二興業の王城に采配を振って、益々巨歩を進めている
(現住所京城旭町一ノ一四二 六十歳)
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南に水利・西に干潟 今や美田の謳歌
二十八の青年に燃えた意気! 藤井寛太郎氏
当時二十八歳の藤井寛太郎氏は・・明治三十七年の早春来鮮した、・・・・・
そこで平野として農耕に適した全北に入って農場をつくった、最初手を下したのは一千五百町歩の荒野で予定通り事業を進めたが、当時は統監府も何もない外国であったので種々の不便があった、農場には官辺の保護などなかったから警察、裁判、学校、病院、こうした機構設備までつくり上げた−ということは現在では予想だにつかなぬことであるが
実際裁判事務をあつかったのだ、皮切りに罰則として五十の鞭を与える判決を下した、ところが、原被告とも、この裁判を非常に喜んだ、それは、当時の朝鮮の裁判は賄賂がきき、食費は全部被告もちであったのにわが藤井施設裁判長は、食事を与え、賄賂はとらぬので、そのために喜ばれたのである
これが評判になって、農場の周囲一里ぐらいの人たちは、裁判を願うなら藤井さんへというわけ−さあ事だ最後には痴話喧嘩の裁きまで持込まれて文字通り忙殺されたからである、けれども、こうしたことが民心を和らげ、信望を深めたのだった
例をあげれば限りがないから、この一例にとどめて次に朝鮮につくしたもののうち地方開発の主なるところを拾ってみよう
藤井さんは前記の如く来鮮以来、農事改良や水利開墾に力を尽して群山地方の土地を買収し農業経営に着手すると共に南鮮地方に水利事業を、西鮮地方に干潟地開拓事業等を起し朝鮮産業の開発に貢献してきたが、水利組合では大正四年に着工した大正水利組合がある同七年に完成、更に拡張工事を進め一大貯水地の築造計画をたて百万円を投じ同十一年に着工し、同十三年に完成、現在では一万一千余町歩の灌漑面積を有するに至った、また益沃水利組合及臨沃水利組合の灌漑事業改善を計画して、大正九年に両者を合併、自ら組合長に任じて工事を進捗させ同十一年四月に水路大幹線の延長十八里にわたる大工事とその 付帯工事を完了、併せて外人技師を招いて三年の日月と、二百三十万円の巨費を投じ朝鮮最初の鉄筋コンクリートのダムを使用する大貯水池をつくりあげた
この威力は、大正十三年の大旱魃に際して他の耕地はあわれにも枯死したが、同地だけは青々と生育して凱歌をあげた、更に大正九年足を汀原道にのばして鉄原郡および平康郡の土地を不二興業会社に譲り受けこの高原地帯の不毛の地を開拓して美田と化した、次に同氏にとって忘れられぬことは移民計画であろう西鮮農場の四千五百町歩鉄原農場の同じく四千五百町歩および沃溝農場の一千町歩に朝鮮人を移住させ、また沃溝農場には理想的内地人
農村を建設し大正十三年の第一回移民の如きは当時干潟地を耕作し戸当り四十五石を収穫したものである、爾来引きつづき移民を募集して現在三百五十戸となり全北農場には二百二十三戸の内地人を移住させて不二農村を完成させた
以上土地改良をなした総面積は四万七十余町歩こりに投じた総事業費は三千三百四十二万円に達している、なお大正十五年本府の産米増殖計画の実行に当り
その代行機関として朝鮮土地改良株式会社を創立し専務取締役となったが、この会社は周知の如く国の方針により目的を達して解散してしまい、今は不二興業の王城に采配を振って、益々巨歩を進めている
(現住所京城旭町一ノ一四二 六十歳)
これは メッセージ 46021 (monju_jz さん)への返信です.