明成皇后(1851‐95)
投稿者: kusotaka 投稿日時: 2001/05/16 14:51 投稿番号: [4264 / 60270]
閔妃
びんひ
Min‐pi
1851‐95
朝鮮,李朝第 26 代高宗の妃。驪興 (れいこう) 閔氏の一族,閔致禄の娘として,京
畿道驪州に生まれる。 1866 年,大院君の夫人閔氏の推薦で王妃となったが,宮中内
外に閔氏一族の勢力を扶植し, 73 年には大院君を失脚させた。翌年,王子廻⊿ (の
ちの純宗) を産んで基盤をさらに固め, 閔妃とその一族は政権の中枢を独占する。 閔
氏政権がすすめた開国政策は国内にさまざまな対立を生み出し, 82 年には壬午軍乱
がおこった。このとき閔妃は変装して王宮を脱出したが,清国軍が介入して大院君を
天津に連れ去ると,再び勢力を回復した。このころから事大=守旧派としての性格を
強め, 84 年の甲申政変を清国軍の力を借りてのりきったあとは,袁世凱 (えんせい
がい) の勢力とも結んで開化派を弾圧し,守旧的な政治を続行した。 94 年 7 月,日
本軍が大院君をかついで王宮を占領し,開化派の政権が成立すると (甲午改革), 閔
妃の一派は政権から追われた。しかし翌年,三国干渉ののちロシアと結んで巻き返
し,政権を回復。このため,勢力後退で焦燥感にかられた日本の手によって殺された。
[閔妃虐殺事件]
1895 年,日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害
された事件。三国干渉を契機として復活した閔氏政権の排日政策に対抗して勢力恐⊿
回を図った三浦は, 10 月 8 日早朝,ソウル駐在の日本守備隊および岡本柳之助, 安
達謙蔵ら日本人壮士のグループに命じて景福宮を襲撃させた。宮殿内に乱入した彼ら
は閔妃を斬殺して奥庭にひきずり出し,死体を凌辱したうえ石油をかけて焼き払い,
これと同時に,大院君をかつぎ出して金弘集を首班とする親日開化派政権を成立させ
た。三浦は朝鮮軍隊の内紛を装ったが,王宮の内部にいた外国人の目撃などから国際
的な非難をあびた。そこで日本政府は,三浦以下 48 名を召喚して形ばかりの裁判を
行い,翌年 1 月,証拠不十分として全員を免訴・釈放した。日本のこうした蛮行に対
して,朝鮮各地で反日義兵闘争がまきおこった。
吉野 誠
これは メッセージ 1 (you_beaut さん)への返信です.
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