> >うそピョ〜ン☆
投稿者: kohshien21 投稿日時: 2004/04/20 13:24 投稿番号: [35284 / 60270]
>しかし漢城旬報はハングルの新聞ではなかった。これは漢文の新聞。
韓国の歴史学者が、総督府によるハングル普及を隠すための捏造だな。
よって、再度貼り付け。
http://mk-iccs.cool.ne.jp/hangul.htm
〈大いなる文字〉という意味の〈ハングル〉という名称は朝鮮が日本統治下に入ってから考案されたものです。〈大いなる文字〉と言う素晴らしい名前を付けられたにもかかわらず、その地位は依然としてオムムンのままでした。
〈ハングル〉の普及を真剣に考えたのは、実はハングルを民族文化の誇りとしている朝鮮人でなく、日本人でした。朝鮮総督府が支配のために努力したのでしょうか? それはもっと後のことです。まず、最初に〈ハングル〉の普及を重要事項と考えたのは日本の文明開化のスーパースター・慶応義塾塾長・壱萬円札の男、ご存知、福沢諭吉です。もう少し正確に言えば、未開国朝鮮を文明国へと導くためには、何よりも、世界で起こっている出来事を、文明開化とは何かということを万人に伝えなければならないと考えた福沢は、識字率を上げる必要を痛切に感じていたのです。3)
そこで、福沢は朝鮮政府に招聘された福沢の弟子、牛場卓蔵・高橋正信・井上角五郎に朝鮮の独立と朝鮮人の啓蒙のためには、朝鮮語による新開の発行が不可欠であるという薫陶を与え、彼らを朝鮮に送ったのでした。しかし、ことは簡単には進まず、牛場卓蔵、高橋正信はきびしい情勢に見切りをつけて帰国してしまいました。井上だけは朝鮮にとどまり、やがて外衙門顧問となりました。福澤は自費でハングル活字を作り、井上に漢字ハングル混じりの表記での新聞発行を奨めたのでした。当時、朝鮮国内で日本と朝鮮の覇権を争っていた清国官憲と朝鮮人の一部からはげしい反撥と憎悪はあったものの、井上は朝鮮における最初の新開『漢城旬報』の発行に成功したのでした。
先も述べた通り、当時、朝鮮では、文書は漢文で書かれていたため、朝鮮の民衆の多くは情報にふれることが出来なかったのです。しかし、この新聞は、漢字・ハングル混じりで書かれていたため、比較的、幅広い人達の間に読者を獲得することが出来たのでした。またハングルは繻撼とされ軽蔑されていましたが、この新聞が発行されたことによって、その意識を改革して行く第一歩となったのでした。しかし、『漢城旬報』が清国兵の京城(今のソウル)での暴行(甲申政変)を非難した記事をのせたところ、李鴻章から朝鮮政府にたいする抗議があり、井上はその責任をとって、1884年(明治17年)5月に辞職におい込まれてしまい、それに伴い、『漢城旬報』も廃刊となってしまったのです。
しかし、世界の動向や論説(福沢の『時事新報』の翻訳が多い)を通じて知識層への開化思想の普及と一般民衆へのハングルの普及といった点で大きな役割を果したのでした。(但し、『漢城旬報』も次第に漢字・ハングル混合文より、漢文の比重が大きくなってしまい、過度な評価はできないかも知れません。ただ、その後、漢字・ハングル混合文で創刊されることになる新聞・雑誌に影響を与えた功績は評価されるべきでしょう。)
ハングルが現在のように民族的な誇りとされ脚光をあびるようになったのは、解放後のアノミー状態のなかで、民族の文化的な遺産としてハングルが注目されたことによると言えるでしょう。
韓国の歴史学者が、総督府によるハングル普及を隠すための捏造だな。
よって、再度貼り付け。
http://mk-iccs.cool.ne.jp/hangul.htm
〈大いなる文字〉という意味の〈ハングル〉という名称は朝鮮が日本統治下に入ってから考案されたものです。〈大いなる文字〉と言う素晴らしい名前を付けられたにもかかわらず、その地位は依然としてオムムンのままでした。
〈ハングル〉の普及を真剣に考えたのは、実はハングルを民族文化の誇りとしている朝鮮人でなく、日本人でした。朝鮮総督府が支配のために努力したのでしょうか? それはもっと後のことです。まず、最初に〈ハングル〉の普及を重要事項と考えたのは日本の文明開化のスーパースター・慶応義塾塾長・壱萬円札の男、ご存知、福沢諭吉です。もう少し正確に言えば、未開国朝鮮を文明国へと導くためには、何よりも、世界で起こっている出来事を、文明開化とは何かということを万人に伝えなければならないと考えた福沢は、識字率を上げる必要を痛切に感じていたのです。3)
そこで、福沢は朝鮮政府に招聘された福沢の弟子、牛場卓蔵・高橋正信・井上角五郎に朝鮮の独立と朝鮮人の啓蒙のためには、朝鮮語による新開の発行が不可欠であるという薫陶を与え、彼らを朝鮮に送ったのでした。しかし、ことは簡単には進まず、牛場卓蔵、高橋正信はきびしい情勢に見切りをつけて帰国してしまいました。井上だけは朝鮮にとどまり、やがて外衙門顧問となりました。福澤は自費でハングル活字を作り、井上に漢字ハングル混じりの表記での新聞発行を奨めたのでした。当時、朝鮮国内で日本と朝鮮の覇権を争っていた清国官憲と朝鮮人の一部からはげしい反撥と憎悪はあったものの、井上は朝鮮における最初の新開『漢城旬報』の発行に成功したのでした。
先も述べた通り、当時、朝鮮では、文書は漢文で書かれていたため、朝鮮の民衆の多くは情報にふれることが出来なかったのです。しかし、この新聞は、漢字・ハングル混じりで書かれていたため、比較的、幅広い人達の間に読者を獲得することが出来たのでした。またハングルは繻撼とされ軽蔑されていましたが、この新聞が発行されたことによって、その意識を改革して行く第一歩となったのでした。しかし、『漢城旬報』が清国兵の京城(今のソウル)での暴行(甲申政変)を非難した記事をのせたところ、李鴻章から朝鮮政府にたいする抗議があり、井上はその責任をとって、1884年(明治17年)5月に辞職におい込まれてしまい、それに伴い、『漢城旬報』も廃刊となってしまったのです。
しかし、世界の動向や論説(福沢の『時事新報』の翻訳が多い)を通じて知識層への開化思想の普及と一般民衆へのハングルの普及といった点で大きな役割を果したのでした。(但し、『漢城旬報』も次第に漢字・ハングル混合文より、漢文の比重が大きくなってしまい、過度な評価はできないかも知れません。ただ、その後、漢字・ハングル混合文で創刊されることになる新聞・雑誌に影響を与えた功績は評価されるべきでしょう。)
ハングルが現在のように民族的な誇りとされ脚光をあびるようになったのは、解放後のアノミー状態のなかで、民族の文化的な遺産としてハングルが注目されたことによると言えるでしょう。
これは メッセージ 35184 (bakajaps さん)への返信です.