日本は何故、反省しないのか?

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アジアの開放

投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2003/03/03 09:08 投稿番号: [30797 / 60270]
このようななか、インド人に驚きと勇気を与えたのが、日露戦争(1904〜05)における日本側の勝利でした。日露戦争とは、当時は白人に支配されるのが当然と思われていた有色人種の小国日本が、白人の軍事大国ロシアに対し、大方の予想を裏切って大勝利を収めた世界史上初めての戦いです。この勝利の報は多くの有色人種に感銘を与えました。後年、インドの初代首相ジャワハルラル・ネルーは「日本が大国ロシアを破ったとき、インド全国民は非常に刺激され、大英帝国をインドから放逐すべきだという独立運動が全インドに広がったのだ。」と言っていますが、事実、この勝利をきっかけに、植民地化されていたアジアから、多くの独立運動家が日本にやってきました。彼らは独立運動を徹底的に弾圧する宗主国の追っ手をのがれて、日本にかくまわれ、白人支配者から独立する機会を狙っていたのです。

そして、1941年(昭和16)12月8日、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をすると、インド人の同志たちは「インド独立連盟」を東京で旗揚げし、翌年には東南アジア各地に散らばっていたインド独立運動家を集めてインド独立を誓う「東京会議」を開くなど、日本はインド独立闘争の拠点となりました。

ところで、あまり知られていないことですが、この戦争で、日本が戦っていたイギリス軍の兵隊のうち、約7割は、イギリス植民地で徴発されたインド人の兵士だったのです。いわゆる「英印軍」と呼ばれたインド人兵士たちでした。

ですから、植民地化されたアジア諸国からヨーロッパ勢力、特にイギリスを追い出すためには、インド人兵士がイギリス軍兵士として、宗主国イギリスのために戦うのをやめさせなければなりません。

そのため、日本政府は、インドの独立を全面的に支援するため、藤原岩市少佐を中心とした十名足らずの「F機関」という組織を作りました。

「F機関」という名は、フジワラ・フリーダム・フレンドシップの頭文字をとって、こう呼ばれたのですが、彼ら機関員はその言葉通り、命がけで日本とインドの共闘を訴えました。イギリス植民地マレー半島の戦場で、イギリス側に立つインド人兵士たちに「インド独立のために、日本と共にイギリスと戦おう。」と降伏を呼びかけていったのです。

最初は半信半疑だったインド兵たちも、F機関員たちが敗残兵である自分たちを差別することなく、一緒のテーブルを囲んで、食事をする事に驚きを隠せませんでした。イギリス軍にいたときは、仲間同士であるはずのイギリス人兵士とインド人兵士が同じ部屋で食事をすることすら考えられなかったのです。

さらに藤原機関長は、日本軍が占領したマレー半島の治安維持を、なんと投降してきたばかりの、彼らインド人捕虜に任せたのです。先程まで、敵味方に別れて戦っていた自分たちを、全面的に信頼してくれている…、この申し出にインド人兵士は驚くと同時に、大変感動したといいます。

降伏してきたインド人兵士たちは、率先して日本軍の先頭に立ち、次々と同胞に降伏を呼びかけてゆきました。こうして、投降インド兵の数は、どんどんふくれあがり、最終的には5万人というインド兵が、イギリス軍を裏切って投降してきたのです。

ここに、インド人による、インド独立のための、インド人の軍隊「インド国民軍(INA)」が誕生しました。さて、一方、冒頭で紹介した指導者(ネタージ)、スバス・チャンドラ・ボースは、どうしていたのでしょうか?彼は、この時イギリスと敵対していたドイツに亡命し、独立運動を展開していました。しかし、ドイツ首脳はヨーロッパのことしか頭になく、しかもインドがイギリスから独立することは、少なくともあと150年は不可能だと考えており、ボースを落胆させてしまいます。

ドイツでの独立闘争の可能性を断たれたボースは、日本が英印軍を組織し始めたことを知り、インド独立闘争のための協力は日本に求めるべきだと判断して、ドイツから日本に行くことを決意します。
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