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工都炎上 川崎大空襲65年<上> 

投稿者: joomoonsuk 投稿日時: 2010/04/17 23:05 投稿番号: [5555 / 6952]
『朝鮮人』に苦境救われ

  一九四五年四月十五日夜、“工都”を狙った川崎大空襲で八百屋一家は店も家も失った。苦境を救ってくれたのは地元の「朝鮮人」の家族だった。

  十一歳で被災した川崎区大島の青果店「グリーンフーズあつみ」会長の渥美幸治朗さん(76)は四人きょうだいの末っ子。六歳のときに父が病死、母ときさんは夫が残した八百屋を女手一つで切り盛りし、きょうだいで店を手伝っていた。「終戦の三年ほど前に野菜も配給制になって、母は不公平にならないように野菜の切り方に気を配っていた」と振り返る。

  店の周辺には日本鋼管(現JFEホールディングス)の工場などで働く朝鮮人が多く住んでいた。戦時下の川崎には、軍需産業の担い手として朝鮮半島から多くの人々が集められた。川崎市史によると、四三年には、劣悪な労働環境で働かされていた朝鮮人労働者らが帰国を求めてストを起こしている。低賃金で過酷な労働を強いられた人々への差別も露骨だった。

  渥美さんが通う桜本国民学校(旧桜本小学校)の同級生にも朝鮮出身者がいたが、母は「朝鮮人をばかにするな」と子どもたちに言い聞かせた。

  「朝鮮の人たちがしょっちゅう訪れて店先で母に愚痴をこぼしていた。母はいつも親身に聞いていました」

  戦火が激しさを増した四五年四月、渥美さんは多摩区生田の集団疎開先から、へんとうの手術のため一時帰宅した。療養を終えて疎開先に戻る前夜、川崎大空襲に遭った。

  空襲警報が鳴り響くと、風呂で濡らした布団をかぶり、母や姉らと自宅を飛び出した。桜本国民学校前の田んぼに身を潜め、近くの銭湯が焼け崩れるのを見た。路地に落ちた油脂焼夷(しょうい)弾がパッと光って燃えるのが「花火みたい」だった。

  やがて田んぼ近くの民家が燃え始め、「ここにいたら危ない」という周囲の声で、一家は川崎臨港署の道場に移動した。辺りは火の海。ガタガタと震える足を一歩一歩、進めた。

  翌日、臨港署から戻ると自宅は焼け落ち、十歳上の長兄あての召集令状を届けに、伯父が訪ね歩いていた。母は息子の出征に備えて、赤飯を炊くためのもち米などを押し入れに保管していたが、すべて空襲で焼けていた。「何もしてやれない」と悔しがりながら、母は長男を送り出した。「絶対に死んじゃだめだよ。必ず帰っておいで」と言い続けていたという。

  一家に手を差し伸べてくれたのは得意先で、母が親しくしていた地元の朝鮮人一家だった。渥美さんは集団疎開先に戻ったが、母と姉、次兄の三人は空襲後に半月ほど、焼け残った家を間借りした。

  戦後も、その一家はしばしば店を訪れ、母と交流を続けていたという。渥美さんが布団をかぶって逃げた道は、韓国料理の食材を扱う店が並び、川崎コリアタウンと呼ばれている。母や兄の跡を継ぎ、地元で青果店を続ける渥美さんは母の記憶をたどりながら「今、お客さんの八割以上が韓国・朝鮮の人です」と破顔した。

     ◇

  川崎大空襲から六十五年。失われつつある戦火の記憶をたどった。

  (この企画は北条香子が担当します)

<川崎大空襲>   1945年4月15日午後10時すぎから翌16日未明にかけ、B29爆撃機約200機が焼夷弾など1万発以上を川崎区、幸区、中原区などに投下。死者は1000人に上り、約3万戸が全半焼したとされる。軍需都市だった川崎市が戦時中、受けた約20回の空襲でも最大規模の被害が出た。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20100415/CK2010041502000084.html


小さな歴史ですが良い話ですね。
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