「親露」から「反日」まで…イ・ジュン烈士
投稿者: japanese_chosun 投稿日時: 2007/07/16 23:46 投稿番号: [3948 / 6952]
の救国
一醒(イルソン)イ・ジュン烈士は、その死だけでなく48年の生涯も同様に多くの研究が必要とされている。烈士は、確固たる斥和(攘夷)思想を持つ儒教的な人物かと思えば、開化派の人物らと同志的関係を結んだ。また、親露派官僚らと交流していたかと思えば、俄館播遷(1897年、国王・高宗〈コジョン〉が日本の影響下に置かれていた宮中を抜け出し、ロシア公使館に居所を移した事件)直後に日本に亡命し、政府と対立を演じた独立協会の活動に参加した後には、大韓帝国平理院(最高裁)の検事として働いた。学会は、イ・ジュン烈士の頻繁な「変わり身」について、「自らの利害関係に捕われず、時代の流れに一身を投じ、ただ国を救うことだけを考えていたため」とし、大筋で好意的な評価を下している。ただし、烈士の代表的な伝記として、婿の柳子厚(ユ・ジャフ)が記した『イ・ジュン先生伝』(1947)があるが、この本の多くの部分が事実と異なっているか、誇張された記述とみなされている。
咸鏡南道北青出身のイ・ジュン烈士は、1895年に新設された法官養成所を卒業し、日本の早稲田大で晩学の道を歩んだ近代学問の先覚者だった。ところで、烈士と関係が深かったと伝えられる19世紀末の親日内閣は、日本の力で中国とロシアを牽制しようと試行錯誤を重ねた政治家らを指し、第2次日韓協約以降、亡国的行動を積み重ねた「親日派」とはまったく異なる存在だ。彼らが日露戦争当時、日本軍の負傷者救援のため募金運動を展開し、逮捕されたことも、こうした脈絡から理解すべきだ。
イ・ゲヒョン博士は「それはロシアの南侵を防ぐための運動だった。しかし、イ・ジュン烈士はすぐに日本の侵略性に気づき、“親日派”から徹底した“反日派”に転向した」と説明した。その後烈士は、尚洞教会を中心に展開された第2次日韓協約反対運動の先頭に立ち、検事になった後は乙巳五賊(第2次日韓協約に賛成した5人の大臣)暗殺を企てた奇山度(キ・サンド)などの赦免に動き、親日大臣らと正面から衝突した。そして、ハーグへの密使としての派遣は、その反日活動の頂点を極めるものだったといえる。
兪碩在(ユ・ソクジェ)記者
朝鮮日報/朝鮮日報JNS
http://www.chosunonline.com/article/20070715000023
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