『日本書紀』朝鮮関係年表、仲哀〜雄略①
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/08/13 19:48 投稿番号: [3123 / 6952]
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字画制限のため、誤字があります。
日本書紀の原文にて確認下さい。
http://www013.upp.so-net.ne.jp/wata/rikkokusi/syoki/syoki.html
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/syoki/syokitop.htm
『日本書紀』朝鮮関係年表、仲哀〜雄略
石井正敏中央大学文学部教授作成
http://www.jkcf.or.jp/history/
○仲哀天皇9年庚辰 200
9月、諸国に命じて兵士・船舶を整える。
10月、神功皇后、和珥津(対馬)を出発し、新羅に到る。新羅王波沙寐錦、降伏し、微叱己知波珍干岐を質とし、多くの金銀財宝を80艘の船に積み、従わせる。ここに高麗・百済王も到り、「今より以後、永く西蕃と称して朝貢を絶たず。」という。
○神功皇后摂政5年乙酉 205
3月、新羅王、使者を遣わして朝貢。質の微叱己知波珍干岐を取りかえさんことを謀る。微叱己知波珍干岐、一時帰国を請う。皇太后、葛城襲津彦を副えて遣わす。途中、対馬に到り、新羅使ら謀って微叱己知波珍干岐を逃がす。襲津彦、新羅の使者を殺し、さらに新羅に到り、草羅城を抜いて還る。
○神功皇后摂政44年甲子 244(364)
7月、百済使久氏ら、卓淳国に到り、日本への道案内を求める。卓淳国王、未だ日本に通ずることなく、道を知らず、ただし大船により通うことができると答える。久氏ら、大船を準備するため帰国するが、もし日本から使者が来たならば、必ず百済に告げるべきことを伝えて還る。(神功摂政46年条)
○神功皇后摂政46年丙寅 246(366)
3月、斯麻宿禰を卓淳国に遣わす。卓淳国王、先年の百済使久氏らのことを伝える。斯麻宿禰、使者を百済に遣わし、その王を慰労させる。百済の肖古王深く歓び厚遇する。五色の綵絹、角の弓箭、ならびに鉄△を使者に与える。さらに宝蔵を開き、珍異の物を示して、「日本に貢つらんと欲するも、道を知らず、志が叶わなかった。今使者に託して貢献する。」と述べる。使者、志摩宿禰のもとに告げる。ついで志摩宿禰ら卓淳から帰国する。
(△は金に廷)
○神功皇后摂政47年丁卯 247(368)
4月、百済王、久氏らを遣わして日本に朝貢。新羅の調使もともに到る。両国の貢物を検校するに、新羅の貢物は珍異の物多く、百済の貢物は少なし。久氏らに問うに、「道に迷って新羅に到った。新羅人は百済王から日本への貢物を奪って自分の貢物とし、百済使には新羅の賤物を貢物として与え、日本にもたせた。」云々と述べる。皇太后(神功)ら新羅使を責め、千熊長彦を新羅に遣わす。
○神功皇后摂政49年己巳 249(369)
3月、日本、荒田別・鹿我別を将軍とし、久氏らとともに軍を整え卓淳国に派遣。新羅を襲うため増兵を求める。よって百済の将木羅斤資・沙沙奴跪に命じて、精兵を率いて派遣。卓淳国に集まり、新羅を撃ちて破る。因りて、比自ホ・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅の7国を平定する。さらに南蛮の忱弥多礼を奪い、百済に賜う。ここに百済王肖古と王子貴須が軍を率いて来会。比利・辟中・布弥支・半古の4邑が自然に降伏。是を以て百済王父子と荒田別・木羅斤資ら、意流村で会う。互いに喜び、歓送。千熊長彦と百済王は、百済国の辟支山に登り、盟う。百済王、「今より後、千秋万歳に絶えることなく、窮まることなく、常に西蕃と称して春秋朝貢せん。」という。千熊長彦らを都でもてなし、久氏らに送らせる。
字画制限のため、誤字があります。
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石井正敏中央大学文学部教授作成
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○仲哀天皇9年庚辰 200
9月、諸国に命じて兵士・船舶を整える。
10月、神功皇后、和珥津(対馬)を出発し、新羅に到る。新羅王波沙寐錦、降伏し、微叱己知波珍干岐を質とし、多くの金銀財宝を80艘の船に積み、従わせる。ここに高麗・百済王も到り、「今より以後、永く西蕃と称して朝貢を絶たず。」という。
○神功皇后摂政5年乙酉 205
3月、新羅王、使者を遣わして朝貢。質の微叱己知波珍干岐を取りかえさんことを謀る。微叱己知波珍干岐、一時帰国を請う。皇太后、葛城襲津彦を副えて遣わす。途中、対馬に到り、新羅使ら謀って微叱己知波珍干岐を逃がす。襲津彦、新羅の使者を殺し、さらに新羅に到り、草羅城を抜いて還る。
○神功皇后摂政44年甲子 244(364)
7月、百済使久氏ら、卓淳国に到り、日本への道案内を求める。卓淳国王、未だ日本に通ずることなく、道を知らず、ただし大船により通うことができると答える。久氏ら、大船を準備するため帰国するが、もし日本から使者が来たならば、必ず百済に告げるべきことを伝えて還る。(神功摂政46年条)
○神功皇后摂政46年丙寅 246(366)
3月、斯麻宿禰を卓淳国に遣わす。卓淳国王、先年の百済使久氏らのことを伝える。斯麻宿禰、使者を百済に遣わし、その王を慰労させる。百済の肖古王深く歓び厚遇する。五色の綵絹、角の弓箭、ならびに鉄△を使者に与える。さらに宝蔵を開き、珍異の物を示して、「日本に貢つらんと欲するも、道を知らず、志が叶わなかった。今使者に託して貢献する。」と述べる。使者、志摩宿禰のもとに告げる。ついで志摩宿禰ら卓淳から帰国する。
(△は金に廷)
○神功皇后摂政47年丁卯 247(368)
4月、百済王、久氏らを遣わして日本に朝貢。新羅の調使もともに到る。両国の貢物を検校するに、新羅の貢物は珍異の物多く、百済の貢物は少なし。久氏らに問うに、「道に迷って新羅に到った。新羅人は百済王から日本への貢物を奪って自分の貢物とし、百済使には新羅の賤物を貢物として与え、日本にもたせた。」云々と述べる。皇太后(神功)ら新羅使を責め、千熊長彦を新羅に遣わす。
○神功皇后摂政49年己巳 249(369)
3月、日本、荒田別・鹿我別を将軍とし、久氏らとともに軍を整え卓淳国に派遣。新羅を襲うため増兵を求める。よって百済の将木羅斤資・沙沙奴跪に命じて、精兵を率いて派遣。卓淳国に集まり、新羅を撃ちて破る。因りて、比自ホ・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅の7国を平定する。さらに南蛮の忱弥多礼を奪い、百済に賜う。ここに百済王肖古と王子貴須が軍を率いて来会。比利・辟中・布弥支・半古の4邑が自然に降伏。是を以て百済王父子と荒田別・木羅斤資ら、意流村で会う。互いに喜び、歓送。千熊長彦と百済王は、百済国の辟支山に登り、盟う。百済王、「今より後、千秋万歳に絶えることなく、窮まることなく、常に西蕃と称して春秋朝貢せん。」という。千熊長彦らを都でもてなし、久氏らに送らせる。
これは メッセージ 1 (ryuckel さん)への返信です.
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