>冊封
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2003/02/10 09:50 投稿番号: [18 / 6952]
史書で残っている限りでは、中国の皇帝によって爵位その他を授けられたのは「倭王武」(雄略天皇と考えられる)が最後で、聖徳太子の頃には隋の煬帝に対してこちらからタメグチをきいているのが「隋書」で分かりますね。
>>そして紱川によった紱川幕府時代にも島国日本の支配者たちとして幕府の将軍たちは朝鮮と中国の明に自分たちが島国日本の国王の資格を持つ支配者という事実を通報して認められたのだ.
>江戸幕府はほとんど明・清政府には使者を送っていませんよ。
もちろん、冊封の使者もきていませんよ。
前述の「倭王武」以降は天皇は中国皇帝には「臣従」しておらず、将軍足利義満が明の建文帝(恵帝)から冊封され、「日本国王」の称号を得ています。
江戸時代には、徳川将軍は「日本国王源」と名乗り、朝鮮国王は「朝鮮国王李」と名乗り、呼びかけとしては「日本国王殿下」「朝鮮国王殿下」でした。
最初は将軍の肩書きを文面でどうするかで、苦慮したようですね。「将軍」では単なる軍司令官という意味ですし、「大君」では朝鮮の王族にも用いられる称号ですし。
そこで、新井白石の拡大解釈として、「『王』は『天皇』よりも格下の称号だから、別に対外的に『王』と名乗っても構わない」という事になったようです。
>江戸幕府が陪臣(下級官吏)を朝鮮に送っているとは言えます。
但し、朝鮮からは将軍就任祝いの使者として直臣を派遣しています。
そうですね。
また、明治維新後、日本からの文書の中に、「皇」とか「奉勅」という文字を見て、朝鮮側が呆れたというのは、有名な話ですね。
日本では「天子」とは天皇であり、「天朝」とは天皇の朝廷ですが、李朝では「天朝」とは北京の清朝政府であり、「天子」とは清朝の皇帝でした。
中国では皇帝は黄色い服を着ますが、李朝では中華文明での規則を忠実に守り、王は赤い服を着ました。また、龍の絵柄なども中国に遠慮して、主に鳳凰を使いました。
>>五百人もの使者を就任祝いに派遣しているのですから、少なくとも朝鮮側が日本に低姿勢で国交を持っていたと考えられます。
この辺は、「意識」としてはどうだったのかは興味深いところで、自らの「威容」を見せ付ける為に500人もの使者を江戸まで参向させていたのか、それとも実際に低姿勢だったのか、どうなのでしょうね。
>>そして紱川によった紱川幕府時代にも島国日本の支配者たちとして幕府の将軍たちは朝鮮と中国の明に自分たちが島国日本の国王の資格を持つ支配者という事実を通報して認められたのだ.
>江戸幕府はほとんど明・清政府には使者を送っていませんよ。
もちろん、冊封の使者もきていませんよ。
前述の「倭王武」以降は天皇は中国皇帝には「臣従」しておらず、将軍足利義満が明の建文帝(恵帝)から冊封され、「日本国王」の称号を得ています。
江戸時代には、徳川将軍は「日本国王源」と名乗り、朝鮮国王は「朝鮮国王李」と名乗り、呼びかけとしては「日本国王殿下」「朝鮮国王殿下」でした。
最初は将軍の肩書きを文面でどうするかで、苦慮したようですね。「将軍」では単なる軍司令官という意味ですし、「大君」では朝鮮の王族にも用いられる称号ですし。
そこで、新井白石の拡大解釈として、「『王』は『天皇』よりも格下の称号だから、別に対外的に『王』と名乗っても構わない」という事になったようです。
>江戸幕府が陪臣(下級官吏)を朝鮮に送っているとは言えます。
但し、朝鮮からは将軍就任祝いの使者として直臣を派遣しています。
そうですね。
また、明治維新後、日本からの文書の中に、「皇」とか「奉勅」という文字を見て、朝鮮側が呆れたというのは、有名な話ですね。
日本では「天子」とは天皇であり、「天朝」とは天皇の朝廷ですが、李朝では「天朝」とは北京の清朝政府であり、「天子」とは清朝の皇帝でした。
中国では皇帝は黄色い服を着ますが、李朝では中華文明での規則を忠実に守り、王は赤い服を着ました。また、龍の絵柄なども中国に遠慮して、主に鳳凰を使いました。
>>五百人もの使者を就任祝いに派遣しているのですから、少なくとも朝鮮側が日本に低姿勢で国交を持っていたと考えられます。
この辺は、「意識」としてはどうだったのかは興味深いところで、自らの「威容」を見せ付ける為に500人もの使者を江戸まで参向させていたのか、それとも実際に低姿勢だったのか、どうなのでしょうね。
これは メッセージ 11 (baggio_aug さん)への返信です.
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