日韓歴史論争

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Re: 大変無知で申し訳ないのですが・・・。

投稿者: samurai_03_japanjp 投稿日時: 2006/02/20 11:51 投稿番号: [1695 / 6952]
>”最後の皇后”

確か、公演する先々で『酷評』されたミュージカルでしたね。

さて、”最後の皇后”こと「閔妃(1851年10月19日 - 1895年10月8日)」ですが。
李朝第26代王・高宗・李煕の妃です。

高宗の父・大院君の「政敵」であり、大院君を追い落とした後は、「勢道政治」と言われる、一族縁者で政権を固める、
所謂「王朝の外戚の悪弊政治」を推し進めました。

当初、閔妃は開化政策をとり、日本と江華島条約を締結するなど、積極的な開化政策をとりました。
軍の近代化も行い、日本から顧問団を招くなどしました。
*この時点では「親日派」

が、「勢道政治」の悪弊(公金の私物化等々)で、軍隊への賃金未払いなどに将兵が不満を持ち。
それに反開化派が結託し、1882年閔妃暗殺を企てました(壬午軍乱)
閔妃はいち早く応急を逃げ出し、当時朝鮮に駐屯していた清の袁世凱の力を借りて窮地を脱しています。

これ以降、閔妃は開化政策から親清政策へと方向転換し、
そのために今度は開化派(従来の両班政治から朝鮮の自主独立近代化を目指す勢力)
の不満を呼びこみました。

1884年の開化派の金玉均を中心にした甲申政変により一時期政権を奪われますが、
これも清軍の力を使って政権を取り戻し、開化派の政権は3日で崩壊します。
*この時点で、「親清派」

1885年になると、ロシアの南下政策を警戒しだしたイギリスなどを牽制するために親露政策もとりはじめます。

日清戦争後、勝者である日本側の押す大院君派の勢力が強くなり、
閔妃の勢力は力を失っていきます。
そのため閔妃は、親露政策をさらに推し進めていき、
1895年7月6日にロシア軍の力を借りて権力の奪回に成功します。
*この時点で「親露派」

これらの動きは閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒され、
1895年10月8日大院君を担ぎ出そうとした勢力により景福宮にて暗殺され、
問題にならないよう遺体もその場で焼却、遺骨も処分されました(乙未事変)

基本的に「あっちにふらふら、こっちにふらふら」
その場その場の利益のみで、ふらつきまわってかき回した挙句、国を憂慮したした勢力に暗殺された人です。

なお、閔妃はその死後、大院君によって王族としての称号を剥奪され、平民に降格されました。

大韓帝国成立後の1897年、井上馨ら日本側からの働きかけによって「明成皇后」の諡号を贈られました。

因みに「大韓帝国『最後の皇后』」は。

高宗の息子(閔妃の子)27代国王(大韓帝国第2代皇帝)純宗の后である、純明孝皇后・閔氏。
若しくは後妻の純貞孝皇后・尹氏が『正しい最後の皇后』です。

*ミュージカルやら、何やらでは、閔妃は『若く美しい』皇后と描写される事が多いようですが。
政治の表舞台に出てきた当時、30代後半から40代前半。

日本もそうでしたが、19世紀、20世紀前半の平均寿命から、当時の年齢に10歳位足したら、今の年齢相当になります。
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