ソンウジョン、見当違いな嘆きをする
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/04/01 12:18 投稿番号: [7311 / 10735]
記事入力 : 2008/04/01 12:00:09
【コラム】安重根と伊藤博文
藤塚明直氏は、所蔵していた朝鮮時代後期の書画家・実学者、金正喜(キム・ジョンヒ)の遺品約2700点を韓国に寄贈した直後、逝去した日本人だ。藤塚明直氏の父・藤塚隣氏は金正喜について研究していた。2年前に藤塚明直氏に会ったとき、94歳という高齢で体が不自由だったが、そのとき投げ掛けられた言葉が日に日に重くのしかかっている。
「日本人には偉大な面がありました。平和が訪れた江戸時代以降、日本人は李舜臣(イ・スンシン)将軍(文禄・慶長の役で豊臣秀吉が送り込んだ日本軍と戦った韓国の英雄)を一生懸命研究しました。東郷は李舜臣を師だと言いました。かつては敵だった人を師として受け入れたのです。これは日本が高く評価されるべき部分です」。「東郷」とは日露戦争を勝利に導いた日本海軍の英雄・東郷平八郎のことだ。
李舜臣と東郷のエピソードは「誇張され伝わった話」とよくいわれるが、藤塚氏は親しかった在日朝鮮美術研究家イ・ヨンゲ氏から直接聞いた話を基に語っていた。植民地時代の資産家だったイ・ヨンゲ氏は、日本の右翼の巨頭的存在だった頭山満に同行し東郷平八郎の元を訪れた。そのとき東郷平八郎はイ・ヨンゲ氏に「あなたの国の李舜臣将軍はわたしの師」と語ったというのだ。藤塚氏はこの話を1977年、母校の京城公立学校(植民地解放〈1945年〉以降ソウル中学校)の同窓会報「慶煕」にも書いている。
有名な歴史小説家の司馬遼太郎も李舜臣と東郷艦隊の関係を興味深く見た人物だった。司馬遼太郎は71年の紀行文『街道を行く』で、日露戦争当時の05年、東郷艦隊がロシアのバルチック艦隊と戦うため出港するとき、兵士たちが李舜臣に祈りをささげたという記録を紹介し、次の通り書いた。「明治時代の士官学校生らは300年前の朝鮮の敵将にどれほど畏敬(いけい)の念を抱いていたかが分かる。その後(日露戦争後)も李舜臣の鎮魂祭を行う伝統が残っていた。(海軍大将になった)山屋他人もそうだった。“韓国人が忘れた李舜臣に、日本人は畏敬と関心を持ち続けてきたのでは”という韓国人もいる」
また、司馬遼太郎は83年の座談会集『日韓理解への道』でも次のように書いている。「当時の日本海軍は(ロシアのバルチック艦隊を)“得体(えたい)の知れない巨大な物、ヨーロッパそのものが近づいている”と考えました。十中八九は海に沈むだろうという恐怖があったのです。でも、勝ちたかった。日本には海の名将がいなかったでしょう。そこで、かつて日本人と敵対した李舜臣の霊に祈ったのです」
日露戦争での日本の勝利には、弱小国の民族運動を刺激したという世界史的な意味がある。しかしわれわれ韓国人からすれば、日本は帝国主義化、韓国は植民地化へと向かう一つの経過点だった。日本が世界から注目を浴び、強国への道を歩み始めるとき、韓国は静かに姿を消しつつあった。1909年に義士・安重根(アン・ジュングン)が伊藤博文を狙撃したときは、東郷艦隊の歴史的評価が最高潮に達したときでもあった。安重根義士が孤立無援の韓国を象徴するとすれば、伊藤博文は日進月歩で躍進する当時の日本を象徴していた。日本は、強国になるためなら敵将の戦法を研究するのはもちろん、それにも飽きたらず霊に祈りをささげるほどの激しさを持っていた。
31日付の本紙コラム「(人気小説家)キム・フンはなぜ小説『安重根』が書けないか」で「伊藤博文の生きざまと内面に対する勉強が足りない」というキム・フン氏の話を読んだとき、藤塚氏が言った「日本人の偉大な面」について何度も考えた。「勉強が足りない」というのは謙遜(けんそん)だろう。「当時の世界史をありのまま受け入れるには、まだ韓国社会にとって荷が重い」という表現がふさわしいのではないかと思う。東郷艦隊が敵将に祈るときのような「強国になりたい」という熱意が、自己否定に至るほどは切迫していないせいかもしれない。
東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員 朝鮮日報/朝鮮日報JNS
実際のこと書いたら、朝鮮人は耐えられないぞ。
【コラム】安重根と伊藤博文
藤塚明直氏は、所蔵していた朝鮮時代後期の書画家・実学者、金正喜(キム・ジョンヒ)の遺品約2700点を韓国に寄贈した直後、逝去した日本人だ。藤塚明直氏の父・藤塚隣氏は金正喜について研究していた。2年前に藤塚明直氏に会ったとき、94歳という高齢で体が不自由だったが、そのとき投げ掛けられた言葉が日に日に重くのしかかっている。
「日本人には偉大な面がありました。平和が訪れた江戸時代以降、日本人は李舜臣(イ・スンシン)将軍(文禄・慶長の役で豊臣秀吉が送り込んだ日本軍と戦った韓国の英雄)を一生懸命研究しました。東郷は李舜臣を師だと言いました。かつては敵だった人を師として受け入れたのです。これは日本が高く評価されるべき部分です」。「東郷」とは日露戦争を勝利に導いた日本海軍の英雄・東郷平八郎のことだ。
李舜臣と東郷のエピソードは「誇張され伝わった話」とよくいわれるが、藤塚氏は親しかった在日朝鮮美術研究家イ・ヨンゲ氏から直接聞いた話を基に語っていた。植民地時代の資産家だったイ・ヨンゲ氏は、日本の右翼の巨頭的存在だった頭山満に同行し東郷平八郎の元を訪れた。そのとき東郷平八郎はイ・ヨンゲ氏に「あなたの国の李舜臣将軍はわたしの師」と語ったというのだ。藤塚氏はこの話を1977年、母校の京城公立学校(植民地解放〈1945年〉以降ソウル中学校)の同窓会報「慶煕」にも書いている。
有名な歴史小説家の司馬遼太郎も李舜臣と東郷艦隊の関係を興味深く見た人物だった。司馬遼太郎は71年の紀行文『街道を行く』で、日露戦争当時の05年、東郷艦隊がロシアのバルチック艦隊と戦うため出港するとき、兵士たちが李舜臣に祈りをささげたという記録を紹介し、次の通り書いた。「明治時代の士官学校生らは300年前の朝鮮の敵将にどれほど畏敬(いけい)の念を抱いていたかが分かる。その後(日露戦争後)も李舜臣の鎮魂祭を行う伝統が残っていた。(海軍大将になった)山屋他人もそうだった。“韓国人が忘れた李舜臣に、日本人は畏敬と関心を持ち続けてきたのでは”という韓国人もいる」
また、司馬遼太郎は83年の座談会集『日韓理解への道』でも次のように書いている。「当時の日本海軍は(ロシアのバルチック艦隊を)“得体(えたい)の知れない巨大な物、ヨーロッパそのものが近づいている”と考えました。十中八九は海に沈むだろうという恐怖があったのです。でも、勝ちたかった。日本には海の名将がいなかったでしょう。そこで、かつて日本人と敵対した李舜臣の霊に祈ったのです」
日露戦争での日本の勝利には、弱小国の民族運動を刺激したという世界史的な意味がある。しかしわれわれ韓国人からすれば、日本は帝国主義化、韓国は植民地化へと向かう一つの経過点だった。日本が世界から注目を浴び、強国への道を歩み始めるとき、韓国は静かに姿を消しつつあった。1909年に義士・安重根(アン・ジュングン)が伊藤博文を狙撃したときは、東郷艦隊の歴史的評価が最高潮に達したときでもあった。安重根義士が孤立無援の韓国を象徴するとすれば、伊藤博文は日進月歩で躍進する当時の日本を象徴していた。日本は、強国になるためなら敵将の戦法を研究するのはもちろん、それにも飽きたらず霊に祈りをささげるほどの激しさを持っていた。
31日付の本紙コラム「(人気小説家)キム・フンはなぜ小説『安重根』が書けないか」で「伊藤博文の生きざまと内面に対する勉強が足りない」というキム・フン氏の話を読んだとき、藤塚氏が言った「日本人の偉大な面」について何度も考えた。「勉強が足りない」というのは謙遜(けんそん)だろう。「当時の世界史をありのまま受け入れるには、まだ韓国社会にとって荷が重い」という表現がふさわしいのではないかと思う。東郷艦隊が敵将に祈るときのような「強国になりたい」という熱意が、自己否定に至るほどは切迫していないせいかもしれない。
東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員 朝鮮日報/朝鮮日報JNS
実際のこと書いたら、朝鮮人は耐えられないぞ。
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