安重根が高く評価される理由
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2008/03/09 14:57 投稿番号: [7050 / 10735]
記事入力 : 2008/03/09 09:32:09
安重根が高く評価される理由とは
「バン! バン! バン!」
1909年10月26日午前9時30分、中国のハルビン駅構内に3発の銃声が響き渡った。日本の初代内閣総理大臣にして初代韓国統監を務めた、68歳の老獪(ろうかい)な政治家・伊藤博文が、その場に倒れ込んだ。駅舎の中で大きく鳴り響いていたロシア儀仗隊の軍楽や、歓迎する人々の歓声は、一瞬で消え去った。当時、乙巳勒約(ろくやく)=第2次日韓協約=の締結を強制し大韓帝国の外交権を剥奪した伊藤博文は、ロシアの財務長官と会談を行うため、特別列車で到着したばかりだった。
事件の主人公は、「大韓国人」安重根(アン・ジュングン)。彼が撃った3発の銃弾は伊藤博文の胸と脇、そして腹を貫き、伊藤博文は30分後に死亡した。続けて安重根は、伊藤博文に随行するハルビン総領事の川上俊彦ら日本人一行に向け、さらに4発を発射した。合わせて7発。そしてけん銃を頭上に掲げ、ロシア語で「コレア、ウラー(大韓国万歳)!」と力強く3度叫んだ。
現場で直ちに逮捕された30歳の青年・安重根は、この1件は個人として行ったのではなく、「大韓国義兵参謀総長」の資格で独立戦争を遂行する過程で敵将を砲殺したものだと表明した。従って、自分は日本の法廷で日本法により裁判を受けることはできず、万国公法(国際法)に則って戦争捕虜として裁判を受けなければらない、と主張した。
安重根は、伊藤博文を狙撃した理由を尋ねる日本の検察官に対し、伊藤博文が犯した15の罪を一つ一つ挙げた。「韓国の明成皇后を弑した罪」「韓国皇帝を廃位に追いやった罪」「5条約(乙巳5条約・第2次日韓協約)と7条約(丁未7条約・第3次日韓協約)の締結を強制した罪」「罪なき韓国人を虐殺した罪」「韓国人が日本人の保護を求めたとの虚言を世界に触れ回った罪」「東洋平和を乱した罪」などだ。
安重根が高く評価される理由は、韓国強制占有の元凶・伊藤博文を狙撃した義士だからではない。彼は、究極の平和主義者だった。1908年に独立軍「大韓義軍」を組織した安重根は、日本軍と戦闘を交え、日本軍の兵士4人を生け捕りにした。安重根は「万国公法に、生け捕った敵兵を殺せと記す法はない」として、兵士たちを釈放した。彼は「弱きを以て強きを破り、善きを以て悪しきを破る」という自らの信念を語った。
安重根の思想は、旅順の獄中で執筆した二つの著述によく表れている。自叙伝『安応七歴史』と、自らの思想を集約した『東洋平和論』だ。このうち『東洋平和論』は、義挙から5カ月後に慌しく死刑が執行されたことで、未完の著に終わった。安重根は『東洋平和論』で、「日本が東洋の平和を実現し自尊する道は、韓国の国権を返還し、満州と中国に対する野望を捨てることだ」と記した。韓・中・日3国が独立を維持しつつ協力することでのみ東洋の平和が実現する、という彼の思想は、最近活発に議論されている「東アジア共同体論」にも多くの示唆を与える。
1910年3月26日午前10時、旅順監獄で死刑が執行された。安重根は、刑場に向かう直前、筆を取り「為国献身/軍人本分」(国のため献身することは軍人の本分である)と書いた。「わたしは東洋平和のためにやったのであり、わたしが死んだ後も、韓日両国が東洋平和のため互いに協力してくれることを望む」。わずか31歳という若さでこの世を去った安重根義士の遺言だ。慶熙大の許東賢(ホ・ドンヒョン)教授(韓国近代史)は「彼は民族国家の誕生を夢見た人物であり、その一方で東洋の平和を唱えた脱民族主義の先駆者でもあった」と語った。
李恒洙(イ・ハンス)記者
朝鮮日報/朝鮮日報JNS
お馬鹿・・・というかコンナ奴しかいないことが哀れ。
安重根が高く評価される理由とは
「バン! バン! バン!」
1909年10月26日午前9時30分、中国のハルビン駅構内に3発の銃声が響き渡った。日本の初代内閣総理大臣にして初代韓国統監を務めた、68歳の老獪(ろうかい)な政治家・伊藤博文が、その場に倒れ込んだ。駅舎の中で大きく鳴り響いていたロシア儀仗隊の軍楽や、歓迎する人々の歓声は、一瞬で消え去った。当時、乙巳勒約(ろくやく)=第2次日韓協約=の締結を強制し大韓帝国の外交権を剥奪した伊藤博文は、ロシアの財務長官と会談を行うため、特別列車で到着したばかりだった。
事件の主人公は、「大韓国人」安重根(アン・ジュングン)。彼が撃った3発の銃弾は伊藤博文の胸と脇、そして腹を貫き、伊藤博文は30分後に死亡した。続けて安重根は、伊藤博文に随行するハルビン総領事の川上俊彦ら日本人一行に向け、さらに4発を発射した。合わせて7発。そしてけん銃を頭上に掲げ、ロシア語で「コレア、ウラー(大韓国万歳)!」と力強く3度叫んだ。
現場で直ちに逮捕された30歳の青年・安重根は、この1件は個人として行ったのではなく、「大韓国義兵参謀総長」の資格で独立戦争を遂行する過程で敵将を砲殺したものだと表明した。従って、自分は日本の法廷で日本法により裁判を受けることはできず、万国公法(国際法)に則って戦争捕虜として裁判を受けなければらない、と主張した。
安重根は、伊藤博文を狙撃した理由を尋ねる日本の検察官に対し、伊藤博文が犯した15の罪を一つ一つ挙げた。「韓国の明成皇后を弑した罪」「韓国皇帝を廃位に追いやった罪」「5条約(乙巳5条約・第2次日韓協約)と7条約(丁未7条約・第3次日韓協約)の締結を強制した罪」「罪なき韓国人を虐殺した罪」「韓国人が日本人の保護を求めたとの虚言を世界に触れ回った罪」「東洋平和を乱した罪」などだ。
安重根が高く評価される理由は、韓国強制占有の元凶・伊藤博文を狙撃した義士だからではない。彼は、究極の平和主義者だった。1908年に独立軍「大韓義軍」を組織した安重根は、日本軍と戦闘を交え、日本軍の兵士4人を生け捕りにした。安重根は「万国公法に、生け捕った敵兵を殺せと記す法はない」として、兵士たちを釈放した。彼は「弱きを以て強きを破り、善きを以て悪しきを破る」という自らの信念を語った。
安重根の思想は、旅順の獄中で執筆した二つの著述によく表れている。自叙伝『安応七歴史』と、自らの思想を集約した『東洋平和論』だ。このうち『東洋平和論』は、義挙から5カ月後に慌しく死刑が執行されたことで、未完の著に終わった。安重根は『東洋平和論』で、「日本が東洋の平和を実現し自尊する道は、韓国の国権を返還し、満州と中国に対する野望を捨てることだ」と記した。韓・中・日3国が独立を維持しつつ協力することでのみ東洋の平和が実現する、という彼の思想は、最近活発に議論されている「東アジア共同体論」にも多くの示唆を与える。
1910年3月26日午前10時、旅順監獄で死刑が執行された。安重根は、刑場に向かう直前、筆を取り「為国献身/軍人本分」(国のため献身することは軍人の本分である)と書いた。「わたしは東洋平和のためにやったのであり、わたしが死んだ後も、韓日両国が東洋平和のため互いに協力してくれることを望む」。わずか31歳という若さでこの世を去った安重根義士の遺言だ。慶熙大の許東賢(ホ・ドンヒョン)教授(韓国近代史)は「彼は民族国家の誕生を夢見た人物であり、その一方で東洋の平和を唱えた脱民族主義の先駆者でもあった」と語った。
李恒洙(イ・ハンス)記者
朝鮮日報/朝鮮日報JNS
お馬鹿・・・というかコンナ奴しかいないことが哀れ。
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