捏造と歪曲はこのように行われた1
投稿者: jgeilsbandfreek 投稿日時: 2006/10/17 06:35 投稿番号: [3163 / 10735]
〈投稿〉
「日本の過去清算を求める国際連帯協議会」
第4回会議に参加して
孫哲秀書記長(写真右)
8月26、27の両日に渡りフィリピンのマニラで、「日本の過去の清算を求める国際連帯協議会」第4回会議が開かれた。
「日本の過去清算を求める国際連帯協議会」は各国、各地域の対日補償要求団体と人権擁護団体、国会議員と弁護士および活動家たちと研究者達を網羅した国際的な連帯組織である。
結成は2002年の5月、平壌で開かれた「日本の過去清算を求めるアジア地域シンポジウム」で合意された。
第4回会議は第1回会議(2003.9、上海)、第2回会議(2004.5、ソウル)、特別会議(2005.5、東京)、第3回会議(2005.9、平壌)に続いて初めて東南アジアで開かれた。
会議に参加した朝鮮人強制連行真相調査団のメンバー(筆者は左、中央は李和雨群馬調査団事務局長)
朝鮮、韓国、中国、フィリピン、台湾、オランダ、ニュージーランド、アメリカ、日本の9カ国と地域から85人が参加した今会議は、今年日本の戦後処理、戦後補償をテーマにした国際会議としては最大規模の会議である。朝鮮、韓国、フィリピン、台湾の被害者たちとフィリピンの上、下両院の国会議員7人および、衆、参両院の前議員2人が参加した。
開会式で「朝鮮〝日本軍慰安婦〟および強制連行被害者補償対策委員会」孫哲秀書記長(東京朝高第25期生)は、さる7月に死去した朴永心ハルモニの遺影をかざしながら「日本は過去を清算していない。61年の歳月が流れたが日本の侵略で失われた数知れない人権が回復されていない。日本政府は過去清算にかかわる全ての資料を包み隠さず即時公開すべきである。」と語った。韓国の「アジア平和と歴史教育連帯」の梁美康常任共同運営委員長は「各国が連帯して補償を求めるべきだ」と主張した。
フィリピン大学アトリ・ハリ・ロケ教授の基調報告のあと、日本軍「慰安婦」及び強制連行被害者達が証言した。朝鮮の金勇傑氏(81歳)は、「1944年の初夏、《赤紙》がきて鎮海の〝新兵訓練所〟に引っ張っていかれた。日本人将校と下士官たちの《気合》で鼓膜が破れ片方の耳が聞こえなくなった。9月、鹿児島の出水に行き軍用飛行場の格納庫と防御施設工場に従事した。敗戦になるや日本人は〝もうどこへでも行け〟と言った。ビタ一文くれなかったので食費や旅費にこと欠いた。何とか下関について船に乗ったが台風に遭い200人中50人が生き残った。日本は自分が死ぬのを待っているらしいが私が死んでも子どもたちや孫たちが謝罪と補償を求め続けるだろう」と証言した。
2に続きます。
孫哲秀書記長(写真右)
8月26、27の両日に渡りフィリピンのマニラで、「日本の過去の清算を求める国際連帯協議会」第4回会議が開かれた。
「日本の過去清算を求める国際連帯協議会」は各国、各地域の対日補償要求団体と人権擁護団体、国会議員と弁護士および活動家たちと研究者達を網羅した国際的な連帯組織である。
結成は2002年の5月、平壌で開かれた「日本の過去清算を求めるアジア地域シンポジウム」で合意された。
第4回会議は第1回会議(2003.9、上海)、第2回会議(2004.5、ソウル)、特別会議(2005.5、東京)、第3回会議(2005.9、平壌)に続いて初めて東南アジアで開かれた。
会議に参加した朝鮮人強制連行真相調査団のメンバー(筆者は左、中央は李和雨群馬調査団事務局長)
朝鮮、韓国、中国、フィリピン、台湾、オランダ、ニュージーランド、アメリカ、日本の9カ国と地域から85人が参加した今会議は、今年日本の戦後処理、戦後補償をテーマにした国際会議としては最大規模の会議である。朝鮮、韓国、フィリピン、台湾の被害者たちとフィリピンの上、下両院の国会議員7人および、衆、参両院の前議員2人が参加した。
開会式で「朝鮮〝日本軍慰安婦〟および強制連行被害者補償対策委員会」孫哲秀書記長(東京朝高第25期生)は、さる7月に死去した朴永心ハルモニの遺影をかざしながら「日本は過去を清算していない。61年の歳月が流れたが日本の侵略で失われた数知れない人権が回復されていない。日本政府は過去清算にかかわる全ての資料を包み隠さず即時公開すべきである。」と語った。韓国の「アジア平和と歴史教育連帯」の梁美康常任共同運営委員長は「各国が連帯して補償を求めるべきだ」と主張した。
フィリピン大学アトリ・ハリ・ロケ教授の基調報告のあと、日本軍「慰安婦」及び強制連行被害者達が証言した。朝鮮の金勇傑氏(81歳)は、「1944年の初夏、《赤紙》がきて鎮海の〝新兵訓練所〟に引っ張っていかれた。日本人将校と下士官たちの《気合》で鼓膜が破れ片方の耳が聞こえなくなった。9月、鹿児島の出水に行き軍用飛行場の格納庫と防御施設工場に従事した。敗戦になるや日本人は〝もうどこへでも行け〟と言った。ビタ一文くれなかったので食費や旅費にこと欠いた。何とか下関について船に乗ったが台風に遭い200人中50人が生き残った。日本は自分が死ぬのを待っているらしいが私が死んでも子どもたちや孫たちが謝罪と補償を求め続けるだろう」と証言した。
2に続きます。
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