斜め上の雲 63
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/07/26 01:48 投稿番号: [1654 / 2847]
このころの北朝鮮は韓国に対してさまざまな攻撃を繰りかえしており、六〇年代後半からはなんども武装ゲリラ部隊を南侵させた。かれらは、
「独裁政権の圧政に苦しんでいる民衆は、かならずわれらに味方する」
と教えこまれていたため、無邪気なまでに民衆に対して無防備だった。
現実はまったくちがった。
住民たちはすすんで韓国軍に通報し、多くのゲリラが、卵でも割るようにたやすく捕捉され殲滅されていった。
このため、北朝鮮はゲリラによる攻勢を中断し責任者の粛清をおこなうのだが、これはすこし先の話である。
六八年一月には、朴大統領ら閣僚の暗殺をねらった三十一名の武装ゲリラが、大統領官邸である青瓦台に肉薄し、一名を残して射殺されるという事件がおこった。
これに対して朴は徹底した復讐行動を企図した。わざわざ三十一人の特殊部隊を選抜、養成して金日成暗殺をねらったのである。
だが、計画は実行寸前で中止された。アメリカの圧力によるものであった。
三十一人だけが宙にういた。
自暴自棄となったかれらは、訓練官らを殺害して離島の訓練所を脱出、ソウルに乗りこんで強盗暴行などをおこなったあげく、乗っ取ったバスのなかで手榴弾が暴発して全滅した。事件は北ゲリラの出没として片づけられた。
これも一種の火病であったのではないかという説がある。
七四年には、休戦ライン近くで南侵用に掘られたトンネルが発見された。翌年三月にも二つ目のトンネルが発見され、七八年には三本目のトンネルが発見された。
むろん、北朝鮮は否定した。しかしそれらのトンネルの壁には、北から南にむかって掘削機のあとがついていた。
同じく七四年の八月十五日には、在日朝鮮人の文世光による朴大統領狙撃事件がおき、朴夫人の陸英修が死亡した。朴は事件の背景捜査と朝鮮総聯の規制を日本に要求した。
大阪市内の交番で盗まれた拳銃が犯行に使われ、最初は日本人の犯行という誤報があったこともあり、日本大使館には抗議のデモが押しよせ日章旗が焼かれた。
このときほど、日韓関係が危ぶまれたことはない。
北ベトナムの優勢と勝利は金日成にとって朗報であった。
七五年四月に訪中したさいには、
「戦争で得るものは統一であるが、うしなうものは軍事境界線のみである」
といい、訒小平ら中国首脳の不興をかった。アメリカと国交を結び、文化大革命の否定による近代化を志向していた訒にとっては、中国もしくはソ連の援助・参戦をたのみとする金の強硬姿勢は迷惑以外のなにものでもなかったのである。
韓国の反応はすばやかった。金の発言からわずか一週間後、朴正煕は、
「北韓の南侵は、自滅であるのみ」
といい、六月にはアメリカのシュレンジャー国務長官も、
「北の南侵時には、核使用も辞さない」
といった。
また、北朝鮮は外交においても積極的な姿勢をみせた。
中東・アフリカ諸国に武器を輸出、軍事顧問団を派遣したうえ、さらに経済援助をしたのである。それをあてにして、マダガスカルのラチラカ大統領、ソマリアのバーレ大統領のように平壌詣でをくりかえす元首も多かった。ラチラカは金に懇願して大理石づくりの大統領宮殿を建ててもらったという。
「独裁政権の圧政に苦しんでいる民衆は、かならずわれらに味方する」
と教えこまれていたため、無邪気なまでに民衆に対して無防備だった。
現実はまったくちがった。
住民たちはすすんで韓国軍に通報し、多くのゲリラが、卵でも割るようにたやすく捕捉され殲滅されていった。
このため、北朝鮮はゲリラによる攻勢を中断し責任者の粛清をおこなうのだが、これはすこし先の話である。
六八年一月には、朴大統領ら閣僚の暗殺をねらった三十一名の武装ゲリラが、大統領官邸である青瓦台に肉薄し、一名を残して射殺されるという事件がおこった。
これに対して朴は徹底した復讐行動を企図した。わざわざ三十一人の特殊部隊を選抜、養成して金日成暗殺をねらったのである。
だが、計画は実行寸前で中止された。アメリカの圧力によるものであった。
三十一人だけが宙にういた。
自暴自棄となったかれらは、訓練官らを殺害して離島の訓練所を脱出、ソウルに乗りこんで強盗暴行などをおこなったあげく、乗っ取ったバスのなかで手榴弾が暴発して全滅した。事件は北ゲリラの出没として片づけられた。
これも一種の火病であったのではないかという説がある。
七四年には、休戦ライン近くで南侵用に掘られたトンネルが発見された。翌年三月にも二つ目のトンネルが発見され、七八年には三本目のトンネルが発見された。
むろん、北朝鮮は否定した。しかしそれらのトンネルの壁には、北から南にむかって掘削機のあとがついていた。
同じく七四年の八月十五日には、在日朝鮮人の文世光による朴大統領狙撃事件がおき、朴夫人の陸英修が死亡した。朴は事件の背景捜査と朝鮮総聯の規制を日本に要求した。
大阪市内の交番で盗まれた拳銃が犯行に使われ、最初は日本人の犯行という誤報があったこともあり、日本大使館には抗議のデモが押しよせ日章旗が焼かれた。
このときほど、日韓関係が危ぶまれたことはない。
北ベトナムの優勢と勝利は金日成にとって朗報であった。
七五年四月に訪中したさいには、
「戦争で得るものは統一であるが、うしなうものは軍事境界線のみである」
といい、訒小平ら中国首脳の不興をかった。アメリカと国交を結び、文化大革命の否定による近代化を志向していた訒にとっては、中国もしくはソ連の援助・参戦をたのみとする金の強硬姿勢は迷惑以外のなにものでもなかったのである。
韓国の反応はすばやかった。金の発言からわずか一週間後、朴正煕は、
「北韓の南侵は、自滅であるのみ」
といい、六月にはアメリカのシュレンジャー国務長官も、
「北の南侵時には、核使用も辞さない」
といった。
また、北朝鮮は外交においても積極的な姿勢をみせた。
中東・アフリカ諸国に武器を輸出、軍事顧問団を派遣したうえ、さらに経済援助をしたのである。それをあてにして、マダガスカルのラチラカ大統領、ソマリアのバーレ大統領のように平壌詣でをくりかえす元首も多かった。ラチラカは金に懇願して大理石づくりの大統領宮殿を建ててもらったという。
これは メッセージ 1647 (toapanlang さん)への返信です.
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