朝鮮を笑う

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斜め上の雲 32

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/05/17 22:03 投稿番号: [1489 / 2847]
  五七年、士官学校を卒業した錫元は陸軍少尉に任官した。
  当時参謀総長は白善菀である。錫元については朝鮮戦争中にわずかながら接したこともあって、なにごとかをみぬいていたらしい。情報局に配属したのもそのあらわれであっただろう。
  白は再度の戦争にそなえて軍の近代化をおしすすめていたが、政治にたいしては不干渉の態度をつらぬきとおした。かれのように日本軍の影響を受けた多くの将官たちは、日本が敗亡したのは軍が政治に介入したせいであると考え、「兵は政を談ぜず」という信条をまもっていた。
  さらにいえばその経歴のため、「親日派」と分類されかねないかれらは、いわば、すねに傷持つ身であるため政治に対しては消極的にならざるをえなかったということもある。李承晩にしてみれば、いつでも「親日派」という理由をつけて粛清できるのである。
  また、一部の将官たちはそういった事情もあって政府に唯々諾々としたがうばかりか阿って利権をもとめるようにもなり、若手将校らの不満をまねいていた。
  軍内は、日本軍、満州軍、中国軍、光復軍出身者がいりみだれており、休戦後しばらくは白善菀や丁一権のような満州軍出身者が要職を占めていたが、特務部隊長である金昌龍少将が暗殺されるなどその満州軍閥内部でも権力争いが激化した。
  李承晩は、そういった状況を利用して各派閥の対立をあおり、勢力の均衡をはかることで軍部を統御してもいた。

  錫元は信五との約束どおり、給料の多くを金村の実家に送金し、残りのほとんどを軍事資料や史料の購入、戦跡の取材旅行についやした。
  白善菀の許可を得て、朝鮮戦争の戦跡をもとめて国内を旅行するだけでなく、他国の戦跡をもとめて海外にもとんだ。そのなかでも日本と台湾にはかよいつめたといっていい。
  両国とも近く、かれにとっては言葉にもそう不自由しないことにくわえて、日本には戦史資料が多く、台湾は戦時中であったからである。

  台湾は、金門島にたびたび中共軍による攻撃があるなど、いまだに戦塵がくすぶっていた。むろん戒厳令はまだしかれている。
  金門島は、台湾島からかなりはなれたアモイ沖合いの島であり、中共軍にとっては喉もとにつきつけられた針のようなものであった。

  一九四九年十月、中共軍は兵二万をもって金門島上陸をこころみ、ほぼ無抵抗で成功した。その間、島内の国府軍はずっと息をひそめている。
  中共軍が上陸しおえたときだった。にわかに国府軍の舟艇があらわれ、中共軍の背後に逆上陸を敢行したのである。
  さらにそれに呼応して、島内にひそんでいた国府軍がいっせいに攻撃を開始した。挟撃された中共軍は二日間の戦闘で多数の戦死者を出して潰滅した。
  また、五五年と五八年には海峡をはさんで国共両軍による大規模な砲撃戦が展開された。とくに五八年のそれはすさまじく、中共軍は四十四日間にわたって、合計四十七万発もの砲弾を金門島に送りこんだといわれる。

「これらの戦いについて研究したい」
  と、錫元は台湾訪問を申請し、みとめられた。仁川や江華島などに北朝鮮軍が上陸した場合を想定してのことである。むろん、北に加勢するであろう中国軍の力量を計測するためでもある。
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