朝鮮を笑う

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斜め上の雲 29

投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/05/09 11:34 投稿番号: [1460 / 2847]
  一八七五年うまれの李承晩はすでに八十歳ちかい老人である。
  零落した両班の末裔である李は、十九歳のとき科挙が廃止され立身の道を断たれたため、ミッションスクールである培材学堂に入り、英語とキリスト教に接した。
  九八年には、「毎日新聞」「帝国新聞」の創刊に参画したばかりか、高宗国王の退位とその次男の擁立計画に加担し、終身刑を宣告された。
  一九〇四年に特赦で釈放され、日本の横暴をルーズベルト大統領に訴えるため、高宗の密使として渡米したが、門前ばらいをくらったのちもアメリカにとどまり、プリンストン大学に入学し哲学博士号を取得した。
  一〇年に帰国したものの、すでに「大韓帝国」は存在せず、一二年にアメリカに亡命して独立運動を開始した。
  一九年の上海臨時政府にさいして大統領に選出されたが、内紛により失脚、ふたたびアメリカにのがれ、光復までアメリカを拠点として活動した。
  独立運動家としての経歴は申しぶんないようではあるが、そのひととなりはどうであったのだろう。
  北進統一をさけびながら現実の軍備についてはなんら手をうたず、朝鮮戦争がはじまると、首都ソウルの死守を命じておいてさっさと逃げだした。
  さらにいえば、逃げた先の大邱でも退去を拒絶してアメリカ大使ムティオに、
「大韓民国の民衆を見捨てることはできない。ライフル百挺をくれ。死士百人をひきいてともに戦って死にたい」
  とさけびながら、けっきょくは何ごともなかったように鎮海に退去した。
  また、日本の警察予備隊を援軍として来援させるというプランを打診されたときには、
「そんなことをすれば、われわれは向きを転じて日本と戦争する」
  と逆上した。そのくせ、もし敗戦して朝鮮半島を追い落された場合には、亡命政権を九州か山口につくろうと画策していた。
  まことにとらえがたい人物ではある。

  前回もふれたが、内政においては失政をかさねたといっていい。
  アメリカからの援助物資の分配を通して財閥を育成したものの、農地改革はすすまず、不満の声は高まった。
  年平均二億ドルにものぼる援助物資は、「李承晩がいるからこそアメリカが援助してくれる」という信仰をうみ、かれの支持理由となったが、五〇年代後半に入ってからじょじょに減額された。同時に財界内の対立も表面化しだしてきており、これがのちに権力崩壊の一因となる。

  また、李はたびかさなる憲法の強引な修正によって大統領任期の延長を繰りかえした。
  とくに強引であったのは、五四年十二月の大統領三選禁止の撤廃の是非を問う国会投票である。
  賛成百三十五票、反対六十票であり賛成票が定員二百三名に対して三分の二をしめてないため、いったんは否決とされたのにもかかわらず、
「国会定数の三分の二は、四捨五入して百三十五票である」
  と、強弁して法案を可決、憲法改正を公布した。このような算術はとうてい常人のなしえるところではないであろう。
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