>下條正男氏への批判、鬱陵島を見る1
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2005/04/07 23:47 投稿番号: [8439 / 18519]
Am I AHOです。
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この文章の前半は問題ありません。竹島(鬱陵島)の帰属をめぐって朝鮮政府と対馬藩が交渉した「竹島一件」で、双方は『東国輿地勝覧』の記事あるいは『芝峰類説』をもとに竹島(鬱陵島)を朝鮮領と合意しました。
『東国輿地勝覧』の記事をもとに「竹島一件」が解決したのでしたら、当時の両国政府の認識から、獨島は朝鮮領として決着したとの心証に傾いております。
即ち、幕府は「竹嶋之内松嶋」と認識しており、朝鮮は『東国輿地勝覧』にて成宗7年の三峯島捜得事業(注1)の成果を反映して、(過去に鬱陵島には到達している)朴宗元らが到達し得なかった三峯島は、鬱陵島やその近傍の島では有り得ないと思われます。
従って、「竹島一件」当時には、両国間で獨島を朝鮮領として合意したものと、合理的に推定することが出来るのではないかと思われます。
(注1:テキストは「半月城通信」より引用)
『成宗実録』(巻72)成宗7(1476)年10月丁酉條
兵曹啓 永興人金自周供云 李道觀察使 以三峰島尋覓事 遣自周及宋永老 與前
日往還 金興 金漢京 李吾乙亡等 十二人 給麻尚船五隻入送 去九月一六日 於
鏡城地瓮仇味 發船向島 同日到宿富寧地青巌 一七日 到宿會寧地加麟串 一八
日到宿慶源地末應大 二五日 西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立
次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流 亦海島之間 有如人
形 別立者三〇 因疑惧 不得直到 畫島形而來 臣等 謂往年朴宗元 由江原道 發
船遭風 不得直到 今漢京等 發船於鏡城瓮仇味 再由此路出入 至畫島形而來 今
若更往 可以尋覓 請於明年四月風和時選有文武才者一人入送 從之
これは メッセージ 8316 (hangetsujoh さん)への返信です.
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