竹島

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朝鮮の松島(于山島)認識と扱い1

投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/01/20 21:51 投稿番号: [798 / 18519]
   半月城です。
   hakkoda1297さんの質問には、以前、Lycos掲示板に書いた文を中心に回答します。
   朝鮮政府は『新増東国輿地勝覧』(1531)にみられるように、東海には鬱陵島と于山島の二島があると認識していました。そして朝鮮領の鬱陵島は日本名が磯竹島、あるいは竹島であるという認識が「竹島一件」交渉過程において日朝双方で確立しました。

   一方、松島(竹島=独島)のほうはどうでしょうか。松島の名が記された朝鮮の文献は柳馨遠の「輿地志」(1656)が初出のようです。ただし、この本は現存しません。それを引用した本に『疆界考』と『東国文献備考』「輿地考」があります。『疆界考』も「輿地考」も申景濬が編纂しました。
  『疆界考』(1756)は朝鮮歴代国家の領域を中心に記したもので、筆写本が高麗大学図書館にあるようです。一方『東国文献備考』(1770)ですが、これは王命により編纂された百科全書風の文献で文物や制度を解説したものでした。資料価値が高い文献です。
   この本も現存しませんが、これを増補、出版した『増補文献備考』(1908)は日本の国会図書館にもあります。その本で増補した部分が明確にされていますが、「輿地志」于山島条は増補した部分には入っていません。したがって、于山島を引用した部分は「輿地志」記述のままではないかと思われます。松島はこう記されました。

  「輿地志がいうには、鬱陵、于山は皆于山国の地、于山はすなわち倭がいうところの松島である(注1)」

   この認識は「輿地志」(1656)の見方であると同時に、『増補文献備考』が発刊された1908年当時の認識でもあるといえます。

   次に松島が朝鮮の史料に登場したのは「竹島一件」のころでした。この時期は前に書いたように、張漢相「鬱陵島事績」で東海にある二島の認識が確定すると同時に、日本へ抗議のため渡航した安龍福の証言などもあって、実見者による地理上の知識が豊富になった時期でした。
   記録上の松島ですが、安龍福の証言をそのまま掲載する形で『粛宗実録』に記され、粛宗22年9月戊寅条に「松島即子山島 此亦我國地」と書かれました。なお、安の証言は基本的には手柄話なので、細部までそれをそっくり事実とみなすわけにはいきません。内藤氏がいうように十分な検証が必要です(注2)。

   それはさておき、隠岐の沖合には二島しかなく、その朝鮮名が鬱陵島、于山島、日本名が竹島、松島であり、しかも竹島が鬱陵島ということになると于山島は必然的に松島になります。
   日本でも当然そのように理解されました。1696年、渡日した安龍福の船が掲げた船験「朝鬱兩島監税將 臣 安同知騎」の意味を鳥取藩ではこう理解しました(注2)。<   >内は小さな字で書かれていたことを示します。

  「朝鬱両島ハ鬱陵島<日本ニテ是ヲ竹島ト称ス>子山島<日本ニテ松島ト呼フ>是ナリ、其トキノ船長ヲ安同知ト呼フ」。

   なお、当時の幕府は松島を認識していなかったので、幕府の理解は問題外です。こうした事情が明治政府による竹島、松島放棄(1877)につながったことはいうまでもありません。
(つづく)
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