結論
投稿者: Am_I_AHO_1st 投稿日時: 2004/12/13 21:36 投稿番号: [6404 / 18519]
家鴨と兎さんwrote:
>「明治32,3年頃から通漁、特に36年イカの饒産を発見するや、入植者急に増加す。朝鮮もこれにならってイカ釣開始。この頃奥村平太郎潜水器及びサザエ、さば缶詰開始。日露役後移住者急増、35,6年頃から邦人も海藻採集を開始したが、単独経営ではなく全部島人との共同経営。潜水器業者も早くから来島し、あわび採取、その人夫に朝鮮人を使用、大正4年頃にはすでに大分県人40人来漁移住、39年小学校開設、本島産のするめは専ら隠岐島人の開拓で、42,3年頃から石見、境、米子の商人が専門の運搬船をもって取引し、ほとんどするめと米の物々交換であった。」(古田敬市「朝鮮水産開発史」1954年、内藤正中「竹島[鬱陵島]をめぐる日朝関係史」p.156.より孫引き)
「特に36年イカの饒産を発見するや、入植者急に増加す。」とありますが、当時の内地人鬱島入植者の漁業従事者はゼロであり、この記述は年代を誤記したか全くの想像であることも考えられる。
「35,6年頃から邦人も海藻採集を開始したが、単独経営ではなく全部島人との共同経営。」とあるのも同様に非常に疑わしい記述と云うほかない。
「大正4年頃にはすでに大分県人40人来漁移住」とあるが、これこそ日本の農商務省の入植政策に合致しており、鬱島への漁業従事者の入植は、大正4年頃が始まりなのではないか。
従って「本島産のするめは専ら隠岐島人の開拓で」とあるが、その根拠は不明であり、むしろ当初韓人が従事していた鯣漁を後から入植した隠岐島人が真似て始めたのが事実ではないだろうか。
何故なら、隠岐からの通漁者であれば、船内で加工した鯣を日本にそのまま持ち帰ることも出来るのであり、わざわざ交通不便な鬱陵島に水揚げする必要も薄いのではないか。隠岐鯣は日本国内で充分販路があったはずである。
そうであれば「石見、境、米子の商人が専門の運搬船をもって取引し、ほとんどするめと米の物々交換」であるならば、それは隠岐からの通漁者ではなく、米を必要とする鬱陵島の住民であろう。しかし、その当時隠岐島民が鬱陵島に定住して漁業に従事した記録は無いのだから、鬱陵島産のするめを日本の商人と交換したのは韓国人以外に考えづらいのである。
>「明治32,3年頃から通漁、特に36年イカの饒産を発見するや、入植者急に増加す。朝鮮もこれにならってイカ釣開始。この頃奥村平太郎潜水器及びサザエ、さば缶詰開始。日露役後移住者急増、35,6年頃から邦人も海藻採集を開始したが、単独経営ではなく全部島人との共同経営。潜水器業者も早くから来島し、あわび採取、その人夫に朝鮮人を使用、大正4年頃にはすでに大分県人40人来漁移住、39年小学校開設、本島産のするめは専ら隠岐島人の開拓で、42,3年頃から石見、境、米子の商人が専門の運搬船をもって取引し、ほとんどするめと米の物々交換であった。」(古田敬市「朝鮮水産開発史」1954年、内藤正中「竹島[鬱陵島]をめぐる日朝関係史」p.156.より孫引き)
「特に36年イカの饒産を発見するや、入植者急に増加す。」とありますが、当時の内地人鬱島入植者の漁業従事者はゼロであり、この記述は年代を誤記したか全くの想像であることも考えられる。
「35,6年頃から邦人も海藻採集を開始したが、単独経営ではなく全部島人との共同経営。」とあるのも同様に非常に疑わしい記述と云うほかない。
「大正4年頃にはすでに大分県人40人来漁移住」とあるが、これこそ日本の農商務省の入植政策に合致しており、鬱島への漁業従事者の入植は、大正4年頃が始まりなのではないか。
従って「本島産のするめは専ら隠岐島人の開拓で」とあるが、その根拠は不明であり、むしろ当初韓人が従事していた鯣漁を後から入植した隠岐島人が真似て始めたのが事実ではないだろうか。
何故なら、隠岐からの通漁者であれば、船内で加工した鯣を日本にそのまま持ち帰ることも出来るのであり、わざわざ交通不便な鬱陵島に水揚げする必要も薄いのではないか。隠岐鯣は日本国内で充分販路があったはずである。
そうであれば「石見、境、米子の商人が専門の運搬船をもって取引し、ほとんどするめと米の物々交換」であるならば、それは隠岐からの通漁者ではなく、米を必要とする鬱陵島の住民であろう。しかし、その当時隠岐島民が鬱陵島に定住して漁業に従事した記録は無いのだから、鬱陵島産のするめを日本の商人と交換したのは韓国人以外に考えづらいのである。
これは メッセージ 6403 (Am_I_AHO_1st さん)への返信です.
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