朱印船と『隠州視聴合紀』
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2004/09/12 21:47 投稿番号: [5618 / 18519]
半月城です。
内藤氏の著書にもたしかに『隠州視聴合紀』は詳述されていました。それが何と「第4章、19世紀末の竹島(鬱陵島)」の章にあったとはちょっとした落し穴でした。内藤氏は、斉藤豊仙の『隠州視聴合紀』についてこう記しました。
「(『隠州視聴合紀』は)1691年(元禄9)の竹島一件が結着する以前の時期である1667年にまとめられた文献である以上、幕府の特別許可を得て竹島渡海事業が行われている時期であるから、竹島(鬱陵島)を日本の乾地(西北境)と思って記述したことは当然とみなければならない(注1,P122)」
この論理にはすこし飛躍があるようです。もし、竹島(鬱陵島)渡海事業が「幕府の特別許可」なしに行われていたのなら内藤氏の説は妥当なところですが、同氏の強調する「幕府の特別許可」こそが問題です。内藤氏は「幕府の特別許可」についてこう記しました。
「もともと異国への渡海を許可する朱印状は、渡航先は明記されているが、宛先も渡航期限も示されないのが通例で、渡航が終るごとに返却する一回限りのものであった。
これに対して奉書船制度における奉書とは異国への渡海許可を記した老中文書で海外に携行したものとされている。ただし宛先は海外に行く本人であって、竹島渡海免許のように鳥取藩主に宛てたのは異例としなければならない(注1,P54)」
内藤正中氏は「幕府の特別許可」をこう考えるのなら、それを斉藤豊仙がどう受止めたのかについて考察すべきでした。それに関する記述は『隠州視聴合紀』にあるのみならず、内藤氏の著書出版以前すでに下條正男氏により次のように明らかにされていました。
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さらに当時、斉藤矛緩が鬱陵島を以って日本の北西限とし、鬱陵島を日本領と認識していたことは、『隠州視聴合記』の「知夫郡 焼火山縁起」の文中からも指摘することができる。
同縁起には「時に元和四年春三月、又伯耆国の大賈 村河氏、官より朱印を賜わり大船を磯竹島に致す。颶風に遇いて高句麗に落つ(注2)。
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下條氏は「朱印を賜り」渡海することの意味をどれだけ知っているのか、首をかしげたくなります。朱印船で渡海するのは「異国」であるという史実を知らないのでしょうか?
それはともかく、斉藤豊仙は磯竹島(鬱陵島)を朱印船で渡海していた島、すなわち異国の島と認識していたのでした。竹島(鬱陵島)が異国の島なら、同島が日本の西北の限りにはなりえません。
また、これは前にも書いたように、『大日本史』の編者も『隠州視聴合紀』をそのように理解しました。内藤氏が『大日本史』について知らなかったのは仕方ないかも知れません。また『現代コリア』は学術誌とはいえないので、内藤氏がそれを知らなかったのも無理ないかもしれません。
しかし島根県の研究者なら、地元の史料である『隠州視聴合紀』をもっと大切に扱うべきではなかったかと思われます。
(注1)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000
(注2)下條正男「竹島問題考」『現代コリア』1996.5, P70
『隠州視聴合紀』原文
「時 元和四年春三月、又伯耆国之大賈 村川民 自官賜朱印 致大舶於磯竹島 遇颶風 落高句麗 日暮不知津」
(隠岐郷土研究会編『隠岐島史料 近世編 上』1963,P29 より引用)
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
内藤氏の著書にもたしかに『隠州視聴合紀』は詳述されていました。それが何と「第4章、19世紀末の竹島(鬱陵島)」の章にあったとはちょっとした落し穴でした。内藤氏は、斉藤豊仙の『隠州視聴合紀』についてこう記しました。
「(『隠州視聴合紀』は)1691年(元禄9)の竹島一件が結着する以前の時期である1667年にまとめられた文献である以上、幕府の特別許可を得て竹島渡海事業が行われている時期であるから、竹島(鬱陵島)を日本の乾地(西北境)と思って記述したことは当然とみなければならない(注1,P122)」
この論理にはすこし飛躍があるようです。もし、竹島(鬱陵島)渡海事業が「幕府の特別許可」なしに行われていたのなら内藤氏の説は妥当なところですが、同氏の強調する「幕府の特別許可」こそが問題です。内藤氏は「幕府の特別許可」についてこう記しました。
「もともと異国への渡海を許可する朱印状は、渡航先は明記されているが、宛先も渡航期限も示されないのが通例で、渡航が終るごとに返却する一回限りのものであった。
これに対して奉書船制度における奉書とは異国への渡海許可を記した老中文書で海外に携行したものとされている。ただし宛先は海外に行く本人であって、竹島渡海免許のように鳥取藩主に宛てたのは異例としなければならない(注1,P54)」
内藤正中氏は「幕府の特別許可」をこう考えるのなら、それを斉藤豊仙がどう受止めたのかについて考察すべきでした。それに関する記述は『隠州視聴合紀』にあるのみならず、内藤氏の著書出版以前すでに下條正男氏により次のように明らかにされていました。
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さらに当時、斉藤矛緩が鬱陵島を以って日本の北西限とし、鬱陵島を日本領と認識していたことは、『隠州視聴合記』の「知夫郡 焼火山縁起」の文中からも指摘することができる。
同縁起には「時に元和四年春三月、又伯耆国の大賈 村河氏、官より朱印を賜わり大船を磯竹島に致す。颶風に遇いて高句麗に落つ(注2)。
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下條氏は「朱印を賜り」渡海することの意味をどれだけ知っているのか、首をかしげたくなります。朱印船で渡海するのは「異国」であるという史実を知らないのでしょうか?
それはともかく、斉藤豊仙は磯竹島(鬱陵島)を朱印船で渡海していた島、すなわち異国の島と認識していたのでした。竹島(鬱陵島)が異国の島なら、同島が日本の西北の限りにはなりえません。
また、これは前にも書いたように、『大日本史』の編者も『隠州視聴合紀』をそのように理解しました。内藤氏が『大日本史』について知らなかったのは仕方ないかも知れません。また『現代コリア』は学術誌とはいえないので、内藤氏がそれを知らなかったのも無理ないかもしれません。
しかし島根県の研究者なら、地元の史料である『隠州視聴合紀』をもっと大切に扱うべきではなかったかと思われます。
(注1)内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』多賀出版,2000
(注2)下條正男「竹島問題考」『現代コリア』1996.5, P70
『隠州視聴合紀』原文
「時 元和四年春三月、又伯耆国之大賈 村川民 自官賜朱印 致大舶於磯竹島 遇颶風 落高句麗 日暮不知津」
(隠岐郷土研究会編『隠岐島史料 近世編 上』1963,P29 より引用)
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 5599 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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