北朝鮮歴史学会の竹島=独島見解15
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/09/28 08:39 投稿番号: [2573 / 18519]
半月城です。北朝鮮歴史学会の論文は今回でおわります。
日韓条約交渉のときに竹島=独島問題は最後までもめ、そのため条約文では一言もふれられませんでした。今後行われる日朝交渉において、竹島=独島問題が浮上するのかどうかは定かではありませんが、もし争点になったとき、北朝鮮は歴史学会の見解をそのまま表明する可能性があります。したがって、歴史学会の論文は日本が相手の主張をあらかじめ知ることができる貴重な資料といえます。
北朝鮮の主張を一言でいうと、日本は「朝鮮民族の独島領有権を認定すべきで」、「独島を奪い、再侵略の道を開こうとする時代錯誤的な妄想」を捨てるべきであるとするものです。
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「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
日帝はなぜ独島の強制編入のみ非公開にしたのか? その理由は自明である。それは、独島が朝鮮固有の領土であることを彼らが知っていたからであり、その事実が朝鮮に知れれば強い抗議をよぶだろうし、列強が異議を提起すれば露日戦争に不利な影響を与えるだろうという打算があったからである。
さらに、日本はやがて朝鮮を属国にする計画を推進し、日本軍隊が漢城(ソウル)を強占する準備をしていたので、日本の官吏は非法的な独島強占公布をその時まで待つことにしたのである。一言でいうと、ひねりだした時間表に合わせて列車をむりやり走らせようとしたのである。
そうであったからこそ、それから1年1カ月が過ぎた1906年3月28日、乙巳保護条約を捏造して朝鮮を植民地にした4カ月後に、再言すれば、独島強奪に対しいかなる国も抗弁する可能性が完全に排除された時期を選んで、初めて日帝は隠岐島司一行を独島に送り現地を視察させ、帰路に鬱島郡守 沈興澤を訪問し「独島が日本領になったので視察の途中に島へ来た」と知らせた。
これは国際慣例に完全に反する無道な行為であった。このような国事は、当然国際慣例にしたがい政府間で協議、通報すべきなのに、日帝は地方官を送り鬱島郡守に通報した(鬱島郡庁保管資料 沈興澤の報告部分)。
鬱島郡守 沈興澤は「本郡所属である独島」を日帝が不法侵奪した事実を江原道観察使に報告したが、それは1カ月が過ぎた4月29日に中央政府に報告された。その報告を受けた内務大臣 李址容、参政大臣 朴斉純など、乙巳五賊の輩までもが日本の度を超した強盗行為に驚きを表し「独島を日本の属地と称するは畢竟無理なことである・・・まったく唖然とする」、「独島領地説は完全に無根」と抗弁した(『新東亜』2000年5月号、「独島」)。
『皇城新聞』、『大韓毎日申報』などソウルの新聞は一斉にこの消息を伝え、日帝の強盗的独島侵奪行為に対し強硬な抗議を表明したし、黄荽をはじめとする知識人たちも日本が独島を自国領としたのは完全なごり押しだと糾弾した。
それにもかかわらず日本の極右たちは、独島は「国際法を基礎とする領土編入手続きをふんで島根県に編入された」とし、「他国から異論がなかった」とか、はなはだしくは、日本は乙巳5条約以後になってや朝鮮の外交事務を監督指揮下においたので「ほんとうに韓国が竹島に対し歴史的および行政的権限をもっていたのなら、日本政府に抗議するのに何の妨げもなかった」などと実に破廉恥な魂胆をさらけだした。
他の国や朝鮮政府は、そうした消息を知りえてこそ支持するなり、抗議するなり自己の立場を表明することができるのである。それなのに露日戦争でロシアに勝ち、「桂ータフト協定」で米国の口を封じた後、乙巳条約を捏造して朝鮮を支配するようになった翌年になってやっと「領土編入」を朝鮮の地方官吏に通報したが、どの列強が異論を提起したり、自主権を失った朝鮮政府がいかに抗議できようか。
(つづく)
日韓条約交渉のときに竹島=独島問題は最後までもめ、そのため条約文では一言もふれられませんでした。今後行われる日朝交渉において、竹島=独島問題が浮上するのかどうかは定かではありませんが、もし争点になったとき、北朝鮮は歴史学会の見解をそのまま表明する可能性があります。したがって、歴史学会の論文は日本が相手の主張をあらかじめ知ることができる貴重な資料といえます。
北朝鮮の主張を一言でいうと、日本は「朝鮮民族の独島領有権を認定すべきで」、「独島を奪い、再侵略の道を開こうとする時代錯誤的な妄想」を捨てるべきであるとするものです。
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「独島は誰もが侵犯することができない朝鮮の神聖な領土である」(2001.7.31付)
朝鮮民主主義人民共和国歴史学学会
(承前)
日帝はなぜ独島の強制編入のみ非公開にしたのか? その理由は自明である。それは、独島が朝鮮固有の領土であることを彼らが知っていたからであり、その事実が朝鮮に知れれば強い抗議をよぶだろうし、列強が異議を提起すれば露日戦争に不利な影響を与えるだろうという打算があったからである。
さらに、日本はやがて朝鮮を属国にする計画を推進し、日本軍隊が漢城(ソウル)を強占する準備をしていたので、日本の官吏は非法的な独島強占公布をその時まで待つことにしたのである。一言でいうと、ひねりだした時間表に合わせて列車をむりやり走らせようとしたのである。
そうであったからこそ、それから1年1カ月が過ぎた1906年3月28日、乙巳保護条約を捏造して朝鮮を植民地にした4カ月後に、再言すれば、独島強奪に対しいかなる国も抗弁する可能性が完全に排除された時期を選んで、初めて日帝は隠岐島司一行を独島に送り現地を視察させ、帰路に鬱島郡守 沈興澤を訪問し「独島が日本領になったので視察の途中に島へ来た」と知らせた。
これは国際慣例に完全に反する無道な行為であった。このような国事は、当然国際慣例にしたがい政府間で協議、通報すべきなのに、日帝は地方官を送り鬱島郡守に通報した(鬱島郡庁保管資料 沈興澤の報告部分)。
鬱島郡守 沈興澤は「本郡所属である独島」を日帝が不法侵奪した事実を江原道観察使に報告したが、それは1カ月が過ぎた4月29日に中央政府に報告された。その報告を受けた内務大臣 李址容、参政大臣 朴斉純など、乙巳五賊の輩までもが日本の度を超した強盗行為に驚きを表し「独島を日本の属地と称するは畢竟無理なことである・・・まったく唖然とする」、「独島領地説は完全に無根」と抗弁した(『新東亜』2000年5月号、「独島」)。
『皇城新聞』、『大韓毎日申報』などソウルの新聞は一斉にこの消息を伝え、日帝の強盗的独島侵奪行為に対し強硬な抗議を表明したし、黄荽をはじめとする知識人たちも日本が独島を自国領としたのは完全なごり押しだと糾弾した。
それにもかかわらず日本の極右たちは、独島は「国際法を基礎とする領土編入手続きをふんで島根県に編入された」とし、「他国から異論がなかった」とか、はなはだしくは、日本は乙巳5条約以後になってや朝鮮の外交事務を監督指揮下においたので「ほんとうに韓国が竹島に対し歴史的および行政的権限をもっていたのなら、日本政府に抗議するのに何の妨げもなかった」などと実に破廉恥な魂胆をさらけだした。
他の国や朝鮮政府は、そうした消息を知りえてこそ支持するなり、抗議するなり自己の立場を表明することができるのである。それなのに露日戦争でロシアに勝ち、「桂ータフト協定」で米国の口を封じた後、乙巳条約を捏造して朝鮮を支配するようになった翌年になってやっと「領土編入」を朝鮮の地方官吏に通報したが、どの列強が異論を提起したり、自主権を失った朝鮮政府がいかに抗議できようか。
(つづく)
これは メッセージ 2568 (hangetsujoh さん)への返信です.
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