対日講和条約と韓国の対応1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/06/01 17:26 投稿番号: [1951 / 18519]
半月城です。
今回は韓国と対日講和(サンフランシスコ)条約とのかかわりを書くことにします。とくに、韓国が竹島=独島をどう扱い、どのような失敗をおかしたのかを明らかにしたいと思います。
日本の敗戦により植民地支配から解放された朝鮮は、当初、連合国の一員として対日講和会議に招待されるとみられていたようでした。それを高崎達雄氏はこう記しました。
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47年3月27日、マッカーサー元帥は、東京に立ち寄った朝鮮合同通信社の金東成社長と会見し、「来る対日講和会議には朝鮮も当然代表を送ることになろう」と語った。また、ムチオ駐韓米大使も韓国を参加させるよう本国政府に進言していた。本国政府も韓国政府に連合国として平和条約に署名させる方針であった(注1)。
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しかし、当時の朝鮮は講和会議どころではありませんでした。植民地支配から脱したものの、亡命臨時政府は力不足のため連合国から認知されず、日本の統治に代わりうる政権は存在しませんでした。そのうえ、朝鮮は東西冷戦対立のあおりをうけ、左右の主導権争いが日に日に激化の一途をたどっていきました。
結局、左右の争いは修復されないまま分裂し、1948年、北と南に別々な政権が誕生してしまいました。しかも不幸はこれだけに終わらず、50年には南北の内戦が勃発しました。熾烈な戦争を反映して、首都ソウルの掌握は南から北の政権へ、さらに南、北、南の手に落ちるなど三転、四転しました。そのたびに民衆が筆舌につくしがたい苦難をこうむったことはいうまでもありません。
国家がこのように存亡の危機にあったので、韓国は対日講和会議に十分なエネルギーをそそぐ余力はありませんでした。ましてや、日本と違って竹島=独島を存分に研究する余裕はありませんでした。韓国はそうした戦争のさなかに、しかも切羽詰まって講和会議対策をせざるをえない状況でした。
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李承晩大統領は51年1月26日の記者会見で、対日講和会議に対する韓国政府の方針を、(1)会議に参加すること、(2)1904年から10年にかけて結ばれた韓日間の諸条約、すなわち「日韓併合ニ関スル条約」などを廃棄させること、(3)不合理な賠償は請求しないこと、であると明らかにした。そして、4月16日、外務部に「対日講和会議準備委員会」を発足させた。
委員会では対日講和条約の草案をめぐっていろいろな議論が起こった。法制処長から高麗大学総長に転じていたユ鎮午は、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原、および請求権を放棄する」(第2章第2条a)を修正し、独島(日本でいう竹島)なども韓国領土であることを平和条約の中に明記させるべきだとした(注1)。
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韓国政府の訓令をうけて、1951年7月19日、駐米韓国大使・梁祐燦は済州島・巨文島・鬱陵島・独島・波浪島の5島を講和条約に明示するようアメリカへ第2次覚書で要請しました。
これに対し、独島・波浪島の位置をどうしても特定できなかったアメリカは、その位置を韓国大使館に質問しました。そのやりとりがアメリカの記録に残っていますが、その内容は驚くべきもので、愼𨉷廈氏はこう記しました。
「(質問に)韓国大使館官吏は 獨島は鬱陵島か竹島付近にある島であり、波浪島もやはり同様な位置と考えるという回答であった。韓国外交官たちが当時、獨島と竹島が同一の島であるということも知らず、また済州島南にある波浪島を鬱陵島付近にあるかのように回答しているが、かれらの無知と無事安逸主義に驚愕するばかりである(注2)」
(つづく)
今回は韓国と対日講和(サンフランシスコ)条約とのかかわりを書くことにします。とくに、韓国が竹島=独島をどう扱い、どのような失敗をおかしたのかを明らかにしたいと思います。
日本の敗戦により植民地支配から解放された朝鮮は、当初、連合国の一員として対日講和会議に招待されるとみられていたようでした。それを高崎達雄氏はこう記しました。
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47年3月27日、マッカーサー元帥は、東京に立ち寄った朝鮮合同通信社の金東成社長と会見し、「来る対日講和会議には朝鮮も当然代表を送ることになろう」と語った。また、ムチオ駐韓米大使も韓国を参加させるよう本国政府に進言していた。本国政府も韓国政府に連合国として平和条約に署名させる方針であった(注1)。
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しかし、当時の朝鮮は講和会議どころではありませんでした。植民地支配から脱したものの、亡命臨時政府は力不足のため連合国から認知されず、日本の統治に代わりうる政権は存在しませんでした。そのうえ、朝鮮は東西冷戦対立のあおりをうけ、左右の主導権争いが日に日に激化の一途をたどっていきました。
結局、左右の争いは修復されないまま分裂し、1948年、北と南に別々な政権が誕生してしまいました。しかも不幸はこれだけに終わらず、50年には南北の内戦が勃発しました。熾烈な戦争を反映して、首都ソウルの掌握は南から北の政権へ、さらに南、北、南の手に落ちるなど三転、四転しました。そのたびに民衆が筆舌につくしがたい苦難をこうむったことはいうまでもありません。
国家がこのように存亡の危機にあったので、韓国は対日講和会議に十分なエネルギーをそそぐ余力はありませんでした。ましてや、日本と違って竹島=独島を存分に研究する余裕はありませんでした。韓国はそうした戦争のさなかに、しかも切羽詰まって講和会議対策をせざるをえない状況でした。
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李承晩大統領は51年1月26日の記者会見で、対日講和会議に対する韓国政府の方針を、(1)会議に参加すること、(2)1904年から10年にかけて結ばれた韓日間の諸条約、すなわち「日韓併合ニ関スル条約」などを廃棄させること、(3)不合理な賠償は請求しないこと、であると明らかにした。そして、4月16日、外務部に「対日講和会議準備委員会」を発足させた。
委員会では対日講和条約の草案をめぐっていろいろな議論が起こった。法制処長から高麗大学総長に転じていたユ鎮午は、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原、および請求権を放棄する」(第2章第2条a)を修正し、独島(日本でいう竹島)なども韓国領土であることを平和条約の中に明記させるべきだとした(注1)。
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韓国政府の訓令をうけて、1951年7月19日、駐米韓国大使・梁祐燦は済州島・巨文島・鬱陵島・独島・波浪島の5島を講和条約に明示するようアメリカへ第2次覚書で要請しました。
これに対し、独島・波浪島の位置をどうしても特定できなかったアメリカは、その位置を韓国大使館に質問しました。そのやりとりがアメリカの記録に残っていますが、その内容は驚くべきもので、愼𨉷廈氏はこう記しました。
「(質問に)韓国大使館官吏は 獨島は鬱陵島か竹島付近にある島であり、波浪島もやはり同様な位置と考えるという回答であった。韓国外交官たちが当時、獨島と竹島が同一の島であるということも知らず、また済州島南にある波浪島を鬱陵島付近にあるかのように回答しているが、かれらの無知と無事安逸主義に驚愕するばかりである(注2)」
(つづく)
これは メッセージ 1950 (hangetsujoh さん)への返信です.
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