竹島

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Re: ふと考えて見た

投稿者: puracyaka2007 投稿日時: 2010/08/16 06:31 投稿番号: [18360 / 18519]
chaamiey様

>鬱島郡の配置顛末(1906.7.13   皇城新聞)の記事のもととなった往復公文書は現存していないのだろうか。
>報道された内容は簡単なものであっても、実際の回答文書には正式な回答文書のほかに説明のための参考資料として勅令41号全文の写しとか「竹島、石島」の位置を示す地図くらいは添付されているのが普通ではなかろうか、と思う。

Web竹島問題研究所2008年11月分の回答に次のものがあります。

【質問1】
    実事求是10に、「勅令第41号が裁可される前日、内部大臣李乾夏が提出した請願書に「該島地方は縦八十里、横五十里たるべし」とあるように、その中に竹島(竹嶼)と石島も含まれていたということである。」とあるが、勅令第41号の起案書や請願書には地図は添付されていないのだろうか。

<回答>
    「勅令第41号」の請議書に、地図が添付されていたかとのご質問に対し、お答えします。結論から申しますと、地図は添付されておりません。
    しかし、「勅令第41号」の第二條で欝島郡の行政区域に加えられた石島が、今日の竹島(独島)でないことは明らかです。「勅令第41号」の公布に繋がる内部大臣李乾夏の「欝陵島を欝島と改称し、島監を郡守に改正するに関する請議書」は、1900年6月、欝陵島に派遣された視察官禹用鼎等の視察録を基にしており、禹用鼎が残した『欝島記』では、欝陵島の疆域を「周廻亦可為一百四五十里」としているからです。この事実は、極めて重大です。
禹用鼎が欝陵島の疆域を「周廻亦可為一百四五十里」としたのは、1882年5月、高宗の命を奉じ、欝陵島を踏査した李奎遠の『欝陵島検察日記』・『啓本草』等を踏襲しているからで、李奎遠は欝陵島の疆域を「一百四五十里許」、「周回仮量為一百四五十里」とし、欝陵島開拓の必要性を奏上しています。そこで高宗は、それまで渡海を禁じていた欝陵島の開拓を命じますが、同時にそれは欝陵島の疆域が定まった時でもありました。
    ここで問題になるのは、李奎遠が「周回仮量為一百四五十里」とした中に、今日の竹島が含まれていたのかどうかです。それを知る手がかりは、同行した画員劉淵■の『欝陵島外図』の中にあります。この『欝陵島外図』も、李奎遠によって高宗に奏上されますが、そこには「勅令第41号」に登場する竹島(竹嶼)と、後に鼠項島となる島項の二島が描かれているだけで、今日の竹島は描かれていません。

ということのようです。
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