太政官指令の外一島は古来の松島=現竹島
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/08/05 22:28 投稿番号: [18332 / 18519]
ahirutousagi2様はNo.18325で、「外一島を松島と考えた。当たり前の話です。前からずっと私はそう言い続けています。それは古来からの松島であったと認識されたと言ってもよいでしょう。私もそう考えています。」と書かれました。
私は、ahirutousagi2様が島根県提出資料に記された外一島の松島を、古来の松島と認識されていたとは、全く思っていなかったので、非常に驚きました。先の投稿では余計な事を書いてしまった様です。大変失礼いたしました。
私が誤解していたのは、ahirutousagi2様が「政府から出ていた資料がことごとく竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーであった」と、繰返し何度も主張されていたのが、極めて強く印象に残っていたからです。古来の松島・竹島と西洋人命名のダジュレー・アルゴノートとは余りにも異質なので、容易に結び付きませんでした。
島根県が内務省に提出した資料の一つ『原由之大畧』は、竹島について「磯竹島一ニ竹島ト稱ス隠岐國ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周囲凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ・・渓谷幽邃樹竹稠密・・魚貝ハ枚挙ニ暇アラス就中海鹿鮑ヲ物産ノ最トス・・」と書いています。この記事から、竹島は江戸時代初期、米子の大谷・村川両家が渡航し豊富な物産を持ち帰っていた鬱陵島であることが分かります。一方、松島については「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獸ヲ産ス」と書いています。松島は隠岐から竹島へ行く途中80里の所にあり、竹島は隠岐の西北120里にある、と記していますから、『原由之大畧』は、『隠州視聴合紀』や長久保赤水以来の地図に載せられた、古来の竹島・松島について述べていることは明らかです。
『原由之大畧』は、当時島根県参事の職にあり「松下村塾」で学んだ、境二郎が主体になり、竹島渡航者の談と松浦武四郎『竹島雜誌』(1854)等を参考にして、纏めたものと思われます(No.18184)。『竹島雜誌』は松島に関しては殆ど触れていませんが、『竹島圖説』を引用して、竹島は「隠岐の國松島の西島(分註:松島の一小屬島也。土俗呼て次島と云。)より海上道規凡四十里許り北の方に有」と記しました。境二郎については、Web竹島問題研究所のサイトに杉原隆氏による極めて優れた紹介があります。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-o.html
幕末から明治の初期、日本海西部沿岸地方の人々は、しばしば鬱陵島に渡航していたようです。従って、島根県当局者は隠岐の西北に竹島と松島の2つの島があることは十分に承知していたでしょう。しかし、竹島とは現存しないアルゴノート島のことであり、松島は鬱陵島に相当するダジュレー島であるという、西洋の地図を知る人は極めて少なかったのではないかと思います。
ahirutousagi2様はまた、「太政官判断において竹島松島は版図外とされた。そして、松島は古来から認識されてきた松島と考えて差支えない。ただし、その島は鬱陵島の位置において認識された形で判断がなされた。結論として、太政官判断で版図外とされたのは鬱陵島までであった」と述べられました。
上記の文章は私なりに次のように解釈しました:「太政官は竹島松島を版図外と判断した。松島は古来の松島である。ただし、その松島は鬱陵島の位置において認識されたので、太政官は鬱陵島と判断した。結論として、太政官判断で版図外とされたのは鬱陵島までであった(松島=現竹島は版図内)。」
松島は、現代の地図で鬱陵島の位置にあるから、太政官は松島を鬱陵島と判断したということが、私にはどうもよく理解できません。確かに、隠岐から松島への距離80里は過大で、「現代の視角」から見ると鬱陵島の近くになります。しかし、更にその西北40里には竹島=鬱陵島が在ると、『原由之大畧』は記していますから、太政官は、松島を鬱陵島とは判断せず、やはり古来の松島=現竹島と判断した、と私は考えます。
私は、ahirutousagi2様が島根県提出資料に記された外一島の松島を、古来の松島と認識されていたとは、全く思っていなかったので、非常に驚きました。先の投稿では余計な事を書いてしまった様です。大変失礼いたしました。
私が誤解していたのは、ahirutousagi2様が「政府から出ていた資料がことごとく竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーであった」と、繰返し何度も主張されていたのが、極めて強く印象に残っていたからです。古来の松島・竹島と西洋人命名のダジュレー・アルゴノートとは余りにも異質なので、容易に結び付きませんでした。
島根県が内務省に提出した資料の一つ『原由之大畧』は、竹島について「磯竹島一ニ竹島ト稱ス隠岐國ノ乾位一百二拾里許ニ在リ周囲凡十里許山峻嶮ニシテ平地少シ・・渓谷幽邃樹竹稠密・・魚貝ハ枚挙ニ暇アラス就中海鹿鮑ヲ物産ノ最トス・・」と書いています。この記事から、竹島は江戸時代初期、米子の大谷・村川両家が渡航し豊富な物産を持ち帰っていた鬱陵島であることが分かります。一方、松島については「次ニ一島アリ松島ト呼フ周囲三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獸ヲ産ス」と書いています。松島は隠岐から竹島へ行く途中80里の所にあり、竹島は隠岐の西北120里にある、と記していますから、『原由之大畧』は、『隠州視聴合紀』や長久保赤水以来の地図に載せられた、古来の竹島・松島について述べていることは明らかです。
『原由之大畧』は、当時島根県参事の職にあり「松下村塾」で学んだ、境二郎が主体になり、竹島渡航者の談と松浦武四郎『竹島雜誌』(1854)等を参考にして、纏めたものと思われます(No.18184)。『竹島雜誌』は松島に関しては殆ど触れていませんが、『竹島圖説』を引用して、竹島は「隠岐の國松島の西島(分註:松島の一小屬島也。土俗呼て次島と云。)より海上道規凡四十里許り北の方に有」と記しました。境二郎については、Web竹島問題研究所のサイトに杉原隆氏による極めて優れた紹介があります。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-o.html
幕末から明治の初期、日本海西部沿岸地方の人々は、しばしば鬱陵島に渡航していたようです。従って、島根県当局者は隠岐の西北に竹島と松島の2つの島があることは十分に承知していたでしょう。しかし、竹島とは現存しないアルゴノート島のことであり、松島は鬱陵島に相当するダジュレー島であるという、西洋の地図を知る人は極めて少なかったのではないかと思います。
ahirutousagi2様はまた、「太政官判断において竹島松島は版図外とされた。そして、松島は古来から認識されてきた松島と考えて差支えない。ただし、その島は鬱陵島の位置において認識された形で判断がなされた。結論として、太政官判断で版図外とされたのは鬱陵島までであった」と述べられました。
上記の文章は私なりに次のように解釈しました:「太政官は竹島松島を版図外と判断した。松島は古来の松島である。ただし、その松島は鬱陵島の位置において認識されたので、太政官は鬱陵島と判断した。結論として、太政官判断で版図外とされたのは鬱陵島までであった(松島=現竹島は版図内)。」
松島は、現代の地図で鬱陵島の位置にあるから、太政官は松島を鬱陵島と判断したということが、私にはどうもよく理解できません。確かに、隠岐から松島への距離80里は過大で、「現代の視角」から見ると鬱陵島の近くになります。しかし、更にその西北40里には竹島=鬱陵島が在ると、『原由之大畧』は記していますから、太政官は、松島を鬱陵島とは判断せず、やはり古来の松島=現竹島と判断した、と私は考えます。
これは メッセージ 18325 (ahirutousagi2 さん)への返信です.
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