Re: >Re: 『大日本府縣分轄圖』について
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2010/07/24 10:43 投稿番号: [18325 / 18519]
>外一島を松島と考えた根拠は、No.18184で詳述しましたが、再度ここに示します。
私はそんなことは聞いていないのですが。文章力のなさを申し訳なく思う次第ですが、コミュニケーションがなりたたないことを残念に思います。外一島を松島と考えた。当たり前の話です。前からずっと私はそう言い続けています。それは古来からの松島であったと認識されたと言ってもよいでしょう。私もそう考えています。そのうえで「次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獸ヲ産ス」がなぜリアンクール岩に比定できるのか、という位置的な問題を問うているのです。どうしてもご理解いただけないでしょうか。
当時の政府関連部署から見受けられる地図は点線であれ、朝鮮全図にされているものであれ、何にしても竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーです。私がメモとしてとってあるの政府関連部署の地図はお示しした通りです。ほかにも陸軍水路局や海軍による地図があるものと承知していますが、すべて同様であると記憶しています。重要なのは、そこに一貫しているのは、竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーという認識でしょう。点線は、極端に申しましてどうでもよい話です。
>「逆に聞きましょうか。太政官が竹島をリアンクール岩に比定したとする根拠は何ですか?」とお尋ねになりましたが、質問の意味が分かりません。
単純ミスです。申し訳ありません。意味は汲み取っていただいていることかと思いますので議論をそのまま続けますが、
>「内務省と太政官は、島根県提出の文書と地図によって、「松島」は「竹島(鬱陵島)」の東南40里に在ることを知りました。そして、その「松島」は、欧米の地図のLiancourt RocksやHornet Rocks、海軍水路寮『朝鮮東海岸圖』(1876)のヲリウツ礁・メ子ライ礁に相当することを承知していたでしょう(No.17667)。
と、どうして勝手に推測できるのでしょうか。17667を読んでも意味が分かりません。私の知る限り、当時の政府関連部署のすべての地図が竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーとし、さらに、太政官判断のあと天城の調査や「大日本府県分轄図」、太政大臣三条実美の記録でも松島=ダジュレーに変わりはありません。これらのすべての条件を排除して、じつは内務省と太政官は松島=リアンクール岩だったと承知していたと推論する、その根拠を繰り返しお尋ねしていますが、半月城さんにしても、アラレさんにしても出てくるのは「現代からの視角」のみのようです。
私は、当時の認識において、その推論は成り立たない。あるいは成り立つ根拠が何もない。むしろ、整合性を考えれば、松島=ダジュレーと位置的に考えたとしか理解しようがない、と申し上げている次第です。
>その説明書の『日本地誌提要』では「松島竹島」を隠岐国条に配し(No.15715)、『大日本府縣分轄圖』の「大日本全國略圖」で、「松島竹島」を一度は隠岐や山陰道と同色に彩りました。
色はどうでもいいです。私が申し上げているのは、「大日本府県分轄図」でさえ、竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーの位置で島を記しているということです。アラレさんの話はご苦労様とは思いますが、ミクロの話で煙にまいているだけの話で、結局は、内務省・太政官が松島をリアンクール岩に比定していた根拠は何も提示していらっしゃいません。ミクロにこだわるあまり、さまざまな事象の整合性はまったく取れているようにも見えません。これでは天城の調査や三条実美の記述も、また御大層な理由付けをなさることになるのではないでしょうか。
難しいことは何もないと思います。太政官判断において竹島松島は版図外とされた。そして、松島は古来から認識されてきた松島と考えて差支えない。ただし、その島は鬱陵島の位置において認識された形で判断がなされた。結論として、太政官判断で版図外とされたのは鬱陵島までであった、ということです。
内務省・太政官がリアンクール岩を松島と考えて、その上で版図外としたという根拠は何もありません。それこそ外務省の甲論乙駁や地理的な混乱が収束した後世の言及などでも持ち出さない限り、理由付けはできないことでしょう。それが太政官判断と結びつく根拠もこれまた何もないというわけです。私は、事象は事象のままにそのままに解釈をすればよい、整合的に資料をとらえるべきだろう、と申し上げているに過ぎません。
私はそんなことは聞いていないのですが。文章力のなさを申し訳なく思う次第ですが、コミュニケーションがなりたたないことを残念に思います。外一島を松島と考えた。当たり前の話です。前からずっと私はそう言い続けています。それは古来からの松島であったと認識されたと言ってもよいでしょう。私もそう考えています。そのうえで「次ニ一島アリ松島ト呼フ周回三十町許竹島ト同一線路ニ在リ隠岐ヲ距ル八拾里許樹竹稀ナリ亦魚獸ヲ産ス」がなぜリアンクール岩に比定できるのか、という位置的な問題を問うているのです。どうしてもご理解いただけないでしょうか。
当時の政府関連部署から見受けられる地図は点線であれ、朝鮮全図にされているものであれ、何にしても竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーです。私がメモとしてとってあるの政府関連部署の地図はお示しした通りです。ほかにも陸軍水路局や海軍による地図があるものと承知していますが、すべて同様であると記憶しています。重要なのは、そこに一貫しているのは、竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーという認識でしょう。点線は、極端に申しましてどうでもよい話です。
>「逆に聞きましょうか。太政官が竹島をリアンクール岩に比定したとする根拠は何ですか?」とお尋ねになりましたが、質問の意味が分かりません。
単純ミスです。申し訳ありません。意味は汲み取っていただいていることかと思いますので議論をそのまま続けますが、
>「内務省と太政官は、島根県提出の文書と地図によって、「松島」は「竹島(鬱陵島)」の東南40里に在ることを知りました。そして、その「松島」は、欧米の地図のLiancourt RocksやHornet Rocks、海軍水路寮『朝鮮東海岸圖』(1876)のヲリウツ礁・メ子ライ礁に相当することを承知していたでしょう(No.17667)。
と、どうして勝手に推測できるのでしょうか。17667を読んでも意味が分かりません。私の知る限り、当時の政府関連部署のすべての地図が竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーとし、さらに、太政官判断のあと天城の調査や「大日本府県分轄図」、太政大臣三条実美の記録でも松島=ダジュレーに変わりはありません。これらのすべての条件を排除して、じつは内務省と太政官は松島=リアンクール岩だったと承知していたと推論する、その根拠を繰り返しお尋ねしていますが、半月城さんにしても、アラレさんにしても出てくるのは「現代からの視角」のみのようです。
私は、当時の認識において、その推論は成り立たない。あるいは成り立つ根拠が何もない。むしろ、整合性を考えれば、松島=ダジュレーと位置的に考えたとしか理解しようがない、と申し上げている次第です。
>その説明書の『日本地誌提要』では「松島竹島」を隠岐国条に配し(No.15715)、『大日本府縣分轄圖』の「大日本全國略圖」で、「松島竹島」を一度は隠岐や山陰道と同色に彩りました。
色はどうでもいいです。私が申し上げているのは、「大日本府県分轄図」でさえ、竹島=アルゴノート、松島=ダジュレーの位置で島を記しているということです。アラレさんの話はご苦労様とは思いますが、ミクロの話で煙にまいているだけの話で、結局は、内務省・太政官が松島をリアンクール岩に比定していた根拠は何も提示していらっしゃいません。ミクロにこだわるあまり、さまざまな事象の整合性はまったく取れているようにも見えません。これでは天城の調査や三条実美の記述も、また御大層な理由付けをなさることになるのではないでしょうか。
難しいことは何もないと思います。太政官判断において竹島松島は版図外とされた。そして、松島は古来から認識されてきた松島と考えて差支えない。ただし、その島は鬱陵島の位置において認識された形で判断がなされた。結論として、太政官判断で版図外とされたのは鬱陵島までであった、ということです。
内務省・太政官がリアンクール岩を松島と考えて、その上で版図外としたという根拠は何もありません。それこそ外務省の甲論乙駁や地理的な混乱が収束した後世の言及などでも持ち出さない限り、理由付けはできないことでしょう。それが太政官判断と結びつく根拠もこれまた何もないというわけです。私は、事象は事象のままにそのままに解釈をすればよい、整合的に資料をとらえるべきだろう、と申し上げているに過ぎません。
これは メッセージ 18324 (ararenotomo1 さん)への返信です.
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