田邉太一は松島を于山と認識していた
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2010/04/21 23:24 投稿番号: [18247 / 18519]
haru2101n様、田邉の認識に対する反論に感謝します。
>>朝鮮蔚陵島に属する于山=現竹島と認識していました。
>それは違います。鬱陵島に属する于山は竹島ではなく竹嶼の事です。混同しないように!それはGerry Bevers氏の研究で明らかになってます。
于山は鬱陵島或いは竹嶼を表すこともありました。竹嶋については、haru2101n様が言われたように、特に、Gerry Bevers氏が多くの地図を示し強調されました。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/
しかし、北澤正誠編『竹島考證』(1881)によると、外務省交信局長田邉太一は、「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と書きました。ここで重要なのは「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ」という文言です。我邦人は鬱陵島の北東約2kmにある竹嶋を松島と名付けたことはありませんから、于山は竹嶼のことではあり得ません。そこで私は、田邉は松島を朝鮮蔚陵島に属する于山=現竹島と認識していた、と判断しました。詳しくは本掲示板No.14932を参照して下さい。
田邉が、「松島は日本人が付けた名前である」と態々述べたのは、1876〜1878年にかけて、シーボルトが誤って付けた松島の名で、鬱陵島の開拓願が繰返し何度も出されたことにあります。彼は「開拓願の松島」が鬱陵島であることを正しく理解しており、開拓願の願書に「松島ハ朝鮮ノ欝陵島ニシテ我版図中ナラス」の付箋を付けています。
田邉は、「我邦人ノ命セル」松島を、『隠州視聴合記』や長久保赤水の地図などに描かれた本来の松島と認識していました。彼は、1875年の「小笠原島回収」でイギリスの異論を抑え、日本人が殆んど住んでいない、この島を取り戻ことに成功しました。その過程で日本周辺では、日本人作製の地図に勝るものは無いことを知ったのでしょう(No.15893)。田邉にとっては、鬱陵島を二つに分け、竹島を烏有のアルゴノート、松島をダジュレーとした、西洋の間違った地図など、全く念頭に無かったと思います。
一方、1876年6月オーストリア臨時代理公使から帰国して記録局長に就任した渡邉洪基は、西洋の地図の中には、鬱陵島を松島とするものや、「松島竹島」を日本領とするものがあることを知り、極めて有能な官僚である渡邉は、鬱陵島まで日本領とすることも可能ではないかと考えました。そこで先ず、この地域の状勢は混乱しており、島の名前すら確定していないと強調し、船艦を派遣して巡視することを主張しました。
ただし、渡邉も「松島竹島」を正しく認識していたようです。彼は『竹島考證』の「松島之議一(第拾壱号)」で次のように書いています。「諸書ニ就テ案スルニ竹嶋洋名アルゴナウト嶋ナル者ハ全ク烏有ノ者ニシテ其松島デラセ嶋ナル者ハ本來ノ竹嶋即チ蔚陵島ニシテ我松嶋ナル者ハ洋名ホルネットロックスナルカ如シ」。
しかし渡邉は、『竹島考證』に収録されている最後の意見書(第二十貳号)で「(因隠石之)縣等ニ問合セ松島之属否竹島松島ノ異同ヲ取調フベシ(中略)現場ノ有様ト従来之模様トヲ合セテ其真ノボシションヲ定ムベキナリ」依然、巡視の必要性を訴え続けました。
これに対し田邉は、「現今ノ務方ニ国脉ヲ静養スルニアリ鮮ヲ煎テコレヲ擾ス計ノ淂ルモノナラス松島断シテ開ク能ワス又開クベカラス其不能不可ヲ知テコレヲ巡視スル豈無益ナラサランヤ況ヤ後害ヲ醸サントスルオヤ」と、巡視に強く反対しました。結局、新政府は田邉の正論を容れ、不当な巡視を中止し、朝鮮との紛争を避けました。
これらについては下記でGerry Bevers氏とかなり議論しました。しかし彼は、私の英語が余りにも下手なので、反論する意欲を無くされたようです。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/11/4the-22nd-column-seeking-truth-based.htm l
>>朝鮮蔚陵島に属する于山=現竹島と認識していました。
>それは違います。鬱陵島に属する于山は竹島ではなく竹嶼の事です。混同しないように!それはGerry Bevers氏の研究で明らかになってます。
于山は鬱陵島或いは竹嶼を表すこともありました。竹嶋については、haru2101n様が言われたように、特に、Gerry Bevers氏が多くの地図を示し強調されました。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/
しかし、北澤正誠編『竹島考證』(1881)によると、外務省交信局長田邉太一は、「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と書きました。ここで重要なのは「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ」という文言です。我邦人は鬱陵島の北東約2kmにある竹嶋を松島と名付けたことはありませんから、于山は竹嶼のことではあり得ません。そこで私は、田邉は松島を朝鮮蔚陵島に属する于山=現竹島と認識していた、と判断しました。詳しくは本掲示板No.14932を参照して下さい。
田邉が、「松島は日本人が付けた名前である」と態々述べたのは、1876〜1878年にかけて、シーボルトが誤って付けた松島の名で、鬱陵島の開拓願が繰返し何度も出されたことにあります。彼は「開拓願の松島」が鬱陵島であることを正しく理解しており、開拓願の願書に「松島ハ朝鮮ノ欝陵島ニシテ我版図中ナラス」の付箋を付けています。
田邉は、「我邦人ノ命セル」松島を、『隠州視聴合記』や長久保赤水の地図などに描かれた本来の松島と認識していました。彼は、1875年の「小笠原島回収」でイギリスの異論を抑え、日本人が殆んど住んでいない、この島を取り戻ことに成功しました。その過程で日本周辺では、日本人作製の地図に勝るものは無いことを知ったのでしょう(No.15893)。田邉にとっては、鬱陵島を二つに分け、竹島を烏有のアルゴノート、松島をダジュレーとした、西洋の間違った地図など、全く念頭に無かったと思います。
一方、1876年6月オーストリア臨時代理公使から帰国して記録局長に就任した渡邉洪基は、西洋の地図の中には、鬱陵島を松島とするものや、「松島竹島」を日本領とするものがあることを知り、極めて有能な官僚である渡邉は、鬱陵島まで日本領とすることも可能ではないかと考えました。そこで先ず、この地域の状勢は混乱しており、島の名前すら確定していないと強調し、船艦を派遣して巡視することを主張しました。
ただし、渡邉も「松島竹島」を正しく認識していたようです。彼は『竹島考證』の「松島之議一(第拾壱号)」で次のように書いています。「諸書ニ就テ案スルニ竹嶋洋名アルゴナウト嶋ナル者ハ全ク烏有ノ者ニシテ其松島デラセ嶋ナル者ハ本來ノ竹嶋即チ蔚陵島ニシテ我松嶋ナル者ハ洋名ホルネットロックスナルカ如シ」。
しかし渡邉は、『竹島考證』に収録されている最後の意見書(第二十貳号)で「(因隠石之)縣等ニ問合セ松島之属否竹島松島ノ異同ヲ取調フベシ(中略)現場ノ有様ト従来之模様トヲ合セテ其真ノボシションヲ定ムベキナリ」依然、巡視の必要性を訴え続けました。
これに対し田邉は、「現今ノ務方ニ国脉ヲ静養スルニアリ鮮ヲ煎テコレヲ擾ス計ノ淂ルモノナラス松島断シテ開ク能ワス又開クベカラス其不能不可ヲ知テコレヲ巡視スル豈無益ナラサランヤ況ヤ後害ヲ醸サントスルオヤ」と、巡視に強く反対しました。結局、新政府は田邉の正論を容れ、不当な巡視を中止し、朝鮮との紛争を避けました。
これらについては下記でGerry Bevers氏とかなり議論しました。しかし彼は、私の英語が余りにも下手なので、反論する意欲を無くされたようです。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/11/4the-22nd-column-seeking-truth-based.htm l
これは メッセージ 18185 (haru2101n さん)への返信です.
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