ararenotomoさんと外一島2
投稿者: yabutarou01 投稿日時: 2009/12/26 10:51 投稿番号: [17644 / 18519]
もし西村捨三が別紙甲号の「外一島」=「松島」を「本来の松島」=「現竹島」と認識していたのであれば、「外一島」の件で内務省に文書と地図を提出した当事者である島根県もそのように認識していたはずですが、実際にはそうではなかったようです。
別紙乙号すなわち明治十四年に島根県令境二郎が内務卿と農商務卿に送った伺い書にはこうあります、
”日本海内松島開墾之儀ニ付伺当管内石見国那賀郡浅井邨士族大屋兼助外一名ヨリ松島開墾願書差出シ其旨趣タル該島ノ義ハ(中略)該島ノ義ハ過ル明治九年地籍取調ノ際本県地籍編入ノ義内務省ヘ相伺候処同十年四月九日付書面竹島外一島ノ義は本邦関係無之義ト可相心得旨御指令相成”
これを読めば当時島根県令境二郎が大屋兼助が開墾願書を差出した「松島」=鬱陵島と外一島たる「松島」=現竹島を混同してしまっていたことがわかります。
また 明治37年(1904年)11月15日に現竹島の命名について問い合わせを受けた隠岐島司の東文輔は、次のように回答しています。
”元来朝鮮の東方海上に松竹両島の存在するは一般口碑の伝ふる所、而して従来当地方より樵耕者の往来する欝陵島を竹島と通称するも、其実は松島にして海図によるも瞭然たる次第に有之候”
”元々朝鮮の東方海上に松島と竹島の二島が存在すると一般的に古くから言い伝えられているが、従来当地方より樵耕業者が往来する鬱陵島を竹島と通称しているのは、実際には松島のことであって、海図によってもそれは明らかである。”
一般口碑の伝ふる松竹両島の「松島」は島根県が「外一島」の件で内務省に文書と地図を提出した「松島」と同じ「本来の松島」=現竹島であるのが明らかですが、隠岐島司の東文輔は海図による「松島」すなわち鬱陵島と混同してしまっています。
これを読めば「外一島」の件で記述された「松島」と戦艦天城の調査で鬱陵島のことであると認識された「松島」とが別々の島であるとはっきりと見なされていたわけではないことが分かります。
内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』の186Pの内藤氏の文章にはこのようにあります、
”島根県の内務部長から地元としての意見を求められた隠岐島司が、鬱陵島を竹島といっているのは「誤称」であり、海図では松島となっているから、新島は竹島と命名すべしと回答しているのである。島司の命名理由からすれば、日本の歴史のなかでは鬱陵島が竹島であったから、リヤンコ島は江戸時代と同様に松島とすべきであった。しかもこのことについては、島根県庁内でも誰からも異論が出されず、島司の回答通りに竹島ということで内務省に報告され、そのまま閣議で決定されたのである。地元でも新島に対する認識がなかったことを示すものであり、そうしたところを固有領土といえるだろうか。”
内藤正中氏は太政官指令の「外一島」の「松島」を内務省に文書と地図を提出した島根県が「本来の松島」=「現竹島」と認識していたと主張されていたはずですが、島司が「一般口碑の伝ふる」松島を鬱陵島と誤解して「現竹島」に竹島と命名し、それに島根県庁内でも誰からも異論が出されなかったということは、島根県は「外一島」の「松島」を「現竹島」と理解してはいなかったのではないでしょうか。島根県が理解していなかったならば内務省も太政官も理解できるはずがありません。
(続く)
別紙乙号すなわち明治十四年に島根県令境二郎が内務卿と農商務卿に送った伺い書にはこうあります、
”日本海内松島開墾之儀ニ付伺当管内石見国那賀郡浅井邨士族大屋兼助外一名ヨリ松島開墾願書差出シ其旨趣タル該島ノ義ハ(中略)該島ノ義ハ過ル明治九年地籍取調ノ際本県地籍編入ノ義内務省ヘ相伺候処同十年四月九日付書面竹島外一島ノ義は本邦関係無之義ト可相心得旨御指令相成”
これを読めば当時島根県令境二郎が大屋兼助が開墾願書を差出した「松島」=鬱陵島と外一島たる「松島」=現竹島を混同してしまっていたことがわかります。
また 明治37年(1904年)11月15日に現竹島の命名について問い合わせを受けた隠岐島司の東文輔は、次のように回答しています。
”元来朝鮮の東方海上に松竹両島の存在するは一般口碑の伝ふる所、而して従来当地方より樵耕者の往来する欝陵島を竹島と通称するも、其実は松島にして海図によるも瞭然たる次第に有之候”
”元々朝鮮の東方海上に松島と竹島の二島が存在すると一般的に古くから言い伝えられているが、従来当地方より樵耕業者が往来する鬱陵島を竹島と通称しているのは、実際には松島のことであって、海図によってもそれは明らかである。”
一般口碑の伝ふる松竹両島の「松島」は島根県が「外一島」の件で内務省に文書と地図を提出した「松島」と同じ「本来の松島」=現竹島であるのが明らかですが、隠岐島司の東文輔は海図による「松島」すなわち鬱陵島と混同してしまっています。
これを読めば「外一島」の件で記述された「松島」と戦艦天城の調査で鬱陵島のことであると認識された「松島」とが別々の島であるとはっきりと見なされていたわけではないことが分かります。
内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』の186Pの内藤氏の文章にはこのようにあります、
”島根県の内務部長から地元としての意見を求められた隠岐島司が、鬱陵島を竹島といっているのは「誤称」であり、海図では松島となっているから、新島は竹島と命名すべしと回答しているのである。島司の命名理由からすれば、日本の歴史のなかでは鬱陵島が竹島であったから、リヤンコ島は江戸時代と同様に松島とすべきであった。しかもこのことについては、島根県庁内でも誰からも異論が出されず、島司の回答通りに竹島ということで内務省に報告され、そのまま閣議で決定されたのである。地元でも新島に対する認識がなかったことを示すものであり、そうしたところを固有領土といえるだろうか。”
内藤正中氏は太政官指令の「外一島」の「松島」を内務省に文書と地図を提出した島根県が「本来の松島」=「現竹島」と認識していたと主張されていたはずですが、島司が「一般口碑の伝ふる」松島を鬱陵島と誤解して「現竹島」に竹島と命名し、それに島根県庁内でも誰からも異論が出されなかったということは、島根県は「外一島」の「松島」を「現竹島」と理解してはいなかったのではないでしょうか。島根県が理解していなかったならば内務省も太政官も理解できるはずがありません。
(続く)
これは メッセージ 17640 (yabutarou01 さん)への返信です.
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