河井庫太郎と吉田東伍の「竹島松島」認識
投稿者: ararenotomo1 投稿日時: 2009/10/08 22:42 投稿番号: [17552 / 18519]
河井庫太郎は、明治14(1881)年に刊行された地名事典『日本地學辭書』において、「竹島:隠岐國ノ西北凡百里ニ在リ穩地郡ニ屬ス磯竹島ノ別稱アリ」「松島:隠岐國ノ西北凡七十里ニ在リ竹島ノ東方ニ位シ穩地郡ニ屬ス」と記し、竹島と松島を隠岐国穩地郡に所属させました(No.17531)。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=58004760&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0
河井庫太郎については、島津俊之氏の「河井庫太郎と未完の『大日本府県志』―吉田東伍になり損ねた男―.空間・社会・地理思想, 10, p.37-56, 2006」に詳述されていますが、上総古河藩士の子として1858年に生まれ、23歳で800頁を超える浩瀚なこの大著を出版した非凡な才を持った早熟の地理マニアだったようです。
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space10/space10_03shimazu.pdf#search='河井庫太郎'
この本は、出版人に名を連ねる鈴木敬作の跋によると、1879年8月「初脱其稿」とあり、一民間人に過ぎなかった河井庫太郎は、1877年の「竹島外一島本邦関係無之」とした太政官指令を全く知らなかったと思われます(No.15815)。
鈴木敬作は1882年8月出版の『朝鮮國全圖』の著者で、これには長久保赤水系の地図によると思われる竹島と松島が描かれていますが、北九州沖の多くの小島の地名も付され、彼にもまた「竹島松島」が朝鮮領との認識は無かったでしょう。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/chosenkokuzenzu-1882/
明治初期、大屋緂(がい)こう(合の右に攵)『本朝國盡』(1874)は「竹島松島」を日本領としましたが(No.17450)、これは極少数派で、当時の日本地理書の多くに「竹島松島」の記述はありません。『日本地誌提要』『日本地誌略』『日本地誌要略』は隠岐国条に「竹島松島」を載せ、日本領とする意図はあったものの、明確に日本領とは書きませんでした。これらの書の「竹島松島」認識は概略、統属なき(何レノ國ニツクト云フモシレヌ:大槻修二著・永田方正解『改正日本地誌要略字引』1879)地というものでした(No.15715)。
河井庫太郎は、「竹島松島」を上記の地理書などで知り、正保国絵図(1645)の「隠岐國圖」や幕末の酒井喜煕『大日本籌海圖誌』等に記された、「竹島松島」への渡航地であり最も近い蘄浦の位置する隠岐国穩地郡に所属させたのでしょう。
河井庫太郎は『日本地學辭書』の刊行を機に、内務省地理局に出仕し(彦根正三『改正官員録』明治15年9月)、「皇国地誌」など地理書の編纂に従事しました。1885年出版の塚本明毅監修・河井庫太郎編輯兼校正『地名索引』では、しかしながら、隠岐国穩地郡の「竹島・松島」は削除されました。
歴史地理書の一つの頂点を極めた吉田東伍『大日本地名辭書』冨山房(1900)は、隠岐國穩地郡北方村蘄浦の項で磯竹島(竹島)を説明しました(No.12262)。平安時代の『權記』や『本朝麗藻公任家集』にあるウルマ島人の漂到、『輿地勝覽』を詳記して新羅による于山國征服の様子や蔚陵島の地理、江戸時代初期の伯耆国人による竹島渡海、それが朝鮮漁民との競合により渡海禁止に至った事情、などを述べています。
吉田東伍は蘄浦の項の最後で、「竹島松島」について、隠岐國條に附載された『地誌提要』の「土俗相傳ふ、蘄浦より松島に至る海路凡六十九里、竹島に至る、海路凡百里、朝鮮に至る、海路凡百三十六里」を引用して、「松島とは輿地勝覽の三峰島なるべし、明治十六年、更に日韓両政府の談判あり、我往漁の舟を還して、再往するなからしめ、明に朝鮮の所屬と爲しぬ。」と結論しました。
なお、吉田東伍が松島を「三峰島」と見做したのは、『輿地勝覽』の「成宗二年、有告別有三峰島者、乃遣朴宗元往覓之、因風濤不得泊而還、同行二船、泊蔚陵島、只取大竹大鰒魚回、啓云島中無居民矣。」に依ると思われます(例えばNos.3473, 5933, 13346)。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=58004760&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0
河井庫太郎については、島津俊之氏の「河井庫太郎と未完の『大日本府県志』―吉田東伍になり損ねた男―.空間・社会・地理思想, 10, p.37-56, 2006」に詳述されていますが、上総古河藩士の子として1858年に生まれ、23歳で800頁を超える浩瀚なこの大著を出版した非凡な才を持った早熟の地理マニアだったようです。
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space10/space10_03shimazu.pdf#search='河井庫太郎'
この本は、出版人に名を連ねる鈴木敬作の跋によると、1879年8月「初脱其稿」とあり、一民間人に過ぎなかった河井庫太郎は、1877年の「竹島外一島本邦関係無之」とした太政官指令を全く知らなかったと思われます(No.15815)。
鈴木敬作は1882年8月出版の『朝鮮國全圖』の著者で、これには長久保赤水系の地図によると思われる竹島と松島が描かれていますが、北九州沖の多くの小島の地名も付され、彼にもまた「竹島松島」が朝鮮領との認識は無かったでしょう。
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/chosenkokuzenzu-1882/
明治初期、大屋緂(がい)こう(合の右に攵)『本朝國盡』(1874)は「竹島松島」を日本領としましたが(No.17450)、これは極少数派で、当時の日本地理書の多くに「竹島松島」の記述はありません。『日本地誌提要』『日本地誌略』『日本地誌要略』は隠岐国条に「竹島松島」を載せ、日本領とする意図はあったものの、明確に日本領とは書きませんでした。これらの書の「竹島松島」認識は概略、統属なき(何レノ國ニツクト云フモシレヌ:大槻修二著・永田方正解『改正日本地誌要略字引』1879)地というものでした(No.15715)。
河井庫太郎は、「竹島松島」を上記の地理書などで知り、正保国絵図(1645)の「隠岐國圖」や幕末の酒井喜煕『大日本籌海圖誌』等に記された、「竹島松島」への渡航地であり最も近い蘄浦の位置する隠岐国穩地郡に所属させたのでしょう。
河井庫太郎は『日本地學辭書』の刊行を機に、内務省地理局に出仕し(彦根正三『改正官員録』明治15年9月)、「皇国地誌」など地理書の編纂に従事しました。1885年出版の塚本明毅監修・河井庫太郎編輯兼校正『地名索引』では、しかしながら、隠岐国穩地郡の「竹島・松島」は削除されました。
歴史地理書の一つの頂点を極めた吉田東伍『大日本地名辭書』冨山房(1900)は、隠岐國穩地郡北方村蘄浦の項で磯竹島(竹島)を説明しました(No.12262)。平安時代の『權記』や『本朝麗藻公任家集』にあるウルマ島人の漂到、『輿地勝覽』を詳記して新羅による于山國征服の様子や蔚陵島の地理、江戸時代初期の伯耆国人による竹島渡海、それが朝鮮漁民との競合により渡海禁止に至った事情、などを述べています。
吉田東伍は蘄浦の項の最後で、「竹島松島」について、隠岐國條に附載された『地誌提要』の「土俗相傳ふ、蘄浦より松島に至る海路凡六十九里、竹島に至る、海路凡百里、朝鮮に至る、海路凡百三十六里」を引用して、「松島とは輿地勝覽の三峰島なるべし、明治十六年、更に日韓両政府の談判あり、我往漁の舟を還して、再往するなからしめ、明に朝鮮の所屬と爲しぬ。」と結論しました。
なお、吉田東伍が松島を「三峰島」と見做したのは、『輿地勝覽』の「成宗二年、有告別有三峰島者、乃遣朴宗元往覓之、因風濤不得泊而還、同行二船、泊蔚陵島、只取大竹大鰒魚回、啓云島中無居民矣。」に依ると思われます(例えばNos.3473, 5933, 13346)。
これは メッセージ 17531 (ararenotomo1 さん)への返信です.
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