高宗は萬機要覧を相手にしていない
投稿者: take_8591 投稿日時: 2008/12/15 18:51 投稿番号: [17200 / 18519]
[ No.17196 ]のつづきです。
高宗実録を「萬機要覧」で検索すると1件もヒットしませんでした。
高宗実録を「輿地勝覽」で検索すると1件だけヒットしました。
朝鮮実録を「龍福」で検索するとヒットするのは肅宗実録のみでした。
ヒットした1件は、高宗が李奎遠に語った内容で、高宗実録1882年04月07日の項に次のとおりです。
或稱芋山島, 或稱松竹島,
皆《輿地勝覽》所載也。
而又稱松島竹島,
與芋山島爲、三島統稱鬱陵島矣。
其形便一體檢察。
或いは芋山島と称し、或いは松竹島と称しているが、
これらは皆『輿地勝覧』に載っているところである。
また松島竹島と称するが、
芋山島とあわせ3島を統べているのが鬱陵島である。
その形便よく検察せよ。
これだけの情報で、「高宗は輿地勝覧に拠って裁断している」「高宗は萬機要覧を相手にしていない」と結論するのは早計ですが、私はこの懸念を捨てられません。
【理由1】 誤記改竄があること。
光海君実録、光海君6年1614年09月02日の項に次の通りです。
今者島倭, 猶欲來居鬱陵島, 又送書契, 殊爲可駭。
本島之屬於我國, 在《輿地勝覽》
或收方物, 或刷島民, 明有典故。
対馬から鬱陵島で住みたいと書契を送ってきた
本島が我国に属したと《輿地勝覧》に記録されている。
方物を収め、島民を刷新したと、典故が明確にある。
一方、萬機要覧には次の通りです。
《輿地志》云 鬱陵・于山 皆于山國地 于山則 倭所謂 松島也
光海七年、倭差船ニ隻、謂将探 磯竹島
・・・・・
所謂 磯竹島 實我國之鬱陵島也。
介於 慶尚・江原海洋、載在 《輿地》 焉可誣也。
盖自 羅麗以来 取考 方物、逮至我朝刷民逃民。
《輿地志》に「鬱陵・于山 皆于山國地 于山則 倭所謂 松島也」とある。
光海君7年(1615年)に、倭船が来て「磯竹島の状況を探りたい」と言う、
・・・・・
磯竹島とは、実に我が国の鬱陵島である。
慶尚道と江原道の海洋にありと、《輿地》に載っている・・・
新羅高麗以来、方物を受け入れたし、本朝は逃民を刷新している。
高宗は、戦後の韓国学者と同じ様には、1656年に作成された《輿地志》を光海君が参照したとは考えないでしょう。仮に、《輿地志》=《輿地勝覧》との解釈を採ったとしたら、萬機要覧に誤記改竄ありと高宗は考えたでしょう。
尚、仁祖実録の1640年7月15日の項に《輿地誌》とあります。《輿地志》=《輿地勝覧》の解釈がリ・ライン以前の常識だったようです。
【理由2】 漂流の愚民に国策は左右されないこと。
萬機要覧は、次のように元禄日朝交渉を締めています。
倭至今 不復指 鬱陵爲日本地、皆龍福功也。
柳成龍答。皇朝将書曰、
東海・・・無島嶼、且水性悍急、不利行。
故自前賊兵雖不無犯境之時、而不常有之。
日本が今まで、鬱陵島は日本の地とできないのは、皆な安龍福の功績だ。
柳成龍答。皇朝将書曰、
東海・・・には島々がなく、また潮流が急で、航行に不便である。
故に、賊兵たちの国境侵犯は常にあるわけではない。
高宗の時代は、東海の急な潮流をものともしない賊兵(英仏米ロ日)による、国境侵犯が日常茶飯になった時代です。清朝初期を上回る危機意識があったはずです。萬機要覧史観のような脳天気な感覚はもてません。すると、龍福の自供以外に根拠の無い「皆龍福功也」という結論に違和感を抱かねばなりません。そして、儒教の本質に立ち戻った思考をすると、漂流の愚民の言を典故に国策は立案できません。
高宗実録を「萬機要覧」で検索すると1件もヒットしませんでした。
高宗実録を「輿地勝覽」で検索すると1件だけヒットしました。
朝鮮実録を「龍福」で検索するとヒットするのは肅宗実録のみでした。
ヒットした1件は、高宗が李奎遠に語った内容で、高宗実録1882年04月07日の項に次のとおりです。
或稱芋山島, 或稱松竹島,
皆《輿地勝覽》所載也。
而又稱松島竹島,
與芋山島爲、三島統稱鬱陵島矣。
其形便一體檢察。
或いは芋山島と称し、或いは松竹島と称しているが、
これらは皆『輿地勝覧』に載っているところである。
また松島竹島と称するが、
芋山島とあわせ3島を統べているのが鬱陵島である。
その形便よく検察せよ。
これだけの情報で、「高宗は輿地勝覧に拠って裁断している」「高宗は萬機要覧を相手にしていない」と結論するのは早計ですが、私はこの懸念を捨てられません。
【理由1】 誤記改竄があること。
光海君実録、光海君6年1614年09月02日の項に次の通りです。
今者島倭, 猶欲來居鬱陵島, 又送書契, 殊爲可駭。
本島之屬於我國, 在《輿地勝覽》
或收方物, 或刷島民, 明有典故。
対馬から鬱陵島で住みたいと書契を送ってきた
本島が我国に属したと《輿地勝覧》に記録されている。
方物を収め、島民を刷新したと、典故が明確にある。
一方、萬機要覧には次の通りです。
《輿地志》云 鬱陵・于山 皆于山國地 于山則 倭所謂 松島也
光海七年、倭差船ニ隻、謂将探 磯竹島
・・・・・
所謂 磯竹島 實我國之鬱陵島也。
介於 慶尚・江原海洋、載在 《輿地》 焉可誣也。
盖自 羅麗以来 取考 方物、逮至我朝刷民逃民。
《輿地志》に「鬱陵・于山 皆于山國地 于山則 倭所謂 松島也」とある。
光海君7年(1615年)に、倭船が来て「磯竹島の状況を探りたい」と言う、
・・・・・
磯竹島とは、実に我が国の鬱陵島である。
慶尚道と江原道の海洋にありと、《輿地》に載っている・・・
新羅高麗以来、方物を受け入れたし、本朝は逃民を刷新している。
高宗は、戦後の韓国学者と同じ様には、1656年に作成された《輿地志》を光海君が参照したとは考えないでしょう。仮に、《輿地志》=《輿地勝覧》との解釈を採ったとしたら、萬機要覧に誤記改竄ありと高宗は考えたでしょう。
尚、仁祖実録の1640年7月15日の項に《輿地誌》とあります。《輿地志》=《輿地勝覧》の解釈がリ・ライン以前の常識だったようです。
【理由2】 漂流の愚民に国策は左右されないこと。
萬機要覧は、次のように元禄日朝交渉を締めています。
倭至今 不復指 鬱陵爲日本地、皆龍福功也。
柳成龍答。皇朝将書曰、
東海・・・無島嶼、且水性悍急、不利行。
故自前賊兵雖不無犯境之時、而不常有之。
日本が今まで、鬱陵島は日本の地とできないのは、皆な安龍福の功績だ。
柳成龍答。皇朝将書曰、
東海・・・には島々がなく、また潮流が急で、航行に不便である。
故に、賊兵たちの国境侵犯は常にあるわけではない。
高宗の時代は、東海の急な潮流をものともしない賊兵(英仏米ロ日)による、国境侵犯が日常茶飯になった時代です。清朝初期を上回る危機意識があったはずです。萬機要覧史観のような脳天気な感覚はもてません。すると、龍福の自供以外に根拠の無い「皆龍福功也」という結論に違和感を抱かねばなりません。そして、儒教の本質に立ち戻った思考をすると、漂流の愚民の言を典故に国策は立案できません。
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