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外務省パンフレットへの批判2、(2)

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/04/12 13:47 投稿番号: [16410 / 18519]
   当時、名著の『東国輿地勝覧』は出版後 200年近く経過し、その間に変動が多々あったので、その増補を目的に『輿地志』が書かれたのでした。したがって、于山島のように変動がない記述はそのままにされました。
   つまり『東国輿地勝覧』も『輿地志』も于山島と欝陵島を別々の島とし、一島説を単なる一説として書いたのでした。したがって、外務省の解釈は明らかに誤りです。
   外務省がそのような初歩的な誤りを犯したのは、パンフレットが述べる、ある「研究」をウノミにしたからでしょうか。その研究とは下條正男氏の研究を指すようです。下條氏はこう記しました。
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   オリジナルの『輿地志』では、「一説に于山鬱陵本一島」と于山島と鬱陵島は同じ島の別の呼び方(同島異名)としているが、松島(現在の竹島)にはまったく言及していなかった、ということである(注3)。
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   下條正男氏のように、資料の一部分だけを意図的に取りあげれば、資料の著者の見解とは正反対の解釈すら可能です。『輿地志』は本説で于山島と欝陵島を別々の島にし、一説で両島は本来一島としたのですが、下條氏は一説の記述のみをとりあげ、『輿地志』の見解とは正反対の見解を、さも『輿地志』の見解であるかのように記しました。
   これは下條氏のいつもながらの我田引水的な手法なので驚くにはあたらないのですが、外務省はその誤った恣意的な解釈をそのまま信じ、原典を確認するという基本的な作業を怠ったたようです。
   その埋め合わせなのか、外務省は下條氏の見解を同省の公式見解とせず、そうした「研究もある」と周到に逃げ道を用意してパンフレットを製作したようです。姑息なやり方ではないでしょうか。

   パンフレットの説明では『輿地志』と『彊界考』などの関係がわかりにくいのですが、『輿地志』は申景濬により『疆界考』および官撰書である『東国文献備考』の分註に次のように引用されました。

『疆界考』(1756)
   按ずるに 輿地志がいうには 一説に于山 欝陵は 本一島 しかるに諸図志を考えるに二島なり 一つはすなわちいわゆる松島にして けだし二島ともにこれ于山国なり

『東国文献備考』「輿地考」(1770)
   輿地志がいうには 欝陵 于山は皆 于山国の地 于山はすなわち倭がいうところの松島なり

   一般に、古文書は日本のみならず韓国や中国でも句読点が一切ありません。したがって、この場合でも分註のどこまでが引用で、どこからが申景濬の見解なのかはっきりしません。
   『輿地志』の原文を分析すると、『疆界考』の場合は下條氏がいうように「一説に于山 欝陵は 本一島」が『輿地志』の引用文であり、それ以下は申景濬の見解であることがわかります。申景濬は『輿地志』や『東国輿地勝覧』に参考として書かれた一説(一島二名説)を完全に否定するため、ことさら『疆界考』でその一説を特記したとみられます。その一方、当時は本説である二島二名説は自明であったためか、分註で特にふれなかったと見られます。

   つぎに『東国文献備考』の場合は、「欝陵 于山は皆 于山国の地」が引用文であり、それ以下の「于山はすなわち倭がいうところの松島なり」は申景濬の見解であることが『輿地志』からわかります。
   一時、私は『東国文献備考』においての引用文献名を『疆界考』とすべきなのに申景濬は誤って『輿地志』にしたのではないかと考えたこともありました。しかし、やはり上記のように解釈するのが妥当ではないかと思います。もちろん、くだんの下條正男氏がいうような史書の「改竄」などはなかったというべきです。
(つづく)
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