竹島

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勅令にいう「石島」はどこ? 3

投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2008/03/16 08:29 投稿番号: [16370 / 18519]
5.下條正男氏

   しばしば変説する下條正男氏ですが、この問題でも変説しているようです。かつて、下條氏は、石島は欝陵島直近の観音島であると断定してこう記しました。
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   さらに「勅令41号」に記された竹島は、今日の竹嶼であったので、石島は今の観音島とすることが出来る。何故なら獨島(竹島)でアシカ猟が始まるのは「勅令41号」が公布された三年後(1903年)で、それ以前は絶海の孤島だったからである(注7)。
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   下條氏は竹島=独島が「絶海の孤島」であることを理由にして、石島と観音島を直接結びつける文献資料をまったく提示せず、短絡的に石島を観音島と断定しました。根拠が薄弱であることは誰も目にも明らかです。同氏はそうした安易な判断に気がとがめたのか、2004年の著書では観音島説を撤回したようで、次のように「石島はどこを指すのか判然としない」と記しました。
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   1900(明治33)年、大韓帝国は禹用鼎を鬱陵島に派遣、その報告をもとにして十月二十五日、鬱陵島を「鬱島郡」に昇格させ、郡守の常駐を決定した。
   その際、大韓帝国政府は「勅令四十一号」を発布し、鬱島郡の行政区域を「鬱陵島全島と竹島、石島」と定めた。政府の認識では、鬱陵島には竹島と石島という二つの属島があったことになる。
   しかしこの「勅令四十一号」には、属島の緯度や経度までは明記されておらず、竹島と石島が実際にどこの島を指すのか、正確さを欠いていた。
   今日の竹島は、当時はまだ竹島と呼ばれておらず、古くは松島、そのころでは日朝ともにリャンコ島と呼ばれていたので、「勅令四十一号」にある竹島は、李奎遠の調査でも「竹島」とされた鬱陵島近傍の竹嶼と思われるが、石島はどこを指すのか判然としない(注8)
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   この見解は 2007年3月の段階でも変化がなかったようで、下條氏は石島の比定を避け、次のように竹島ではないと指摘するにとどまりました。
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   さらに一九〇五年の竹島の島根県編入を侵略とする論拠として、韓国側が挙げた「勅令第四一号」の解釈にも問題があった。『勅令第四一号』は一九〇〇年、欝陵島が欝島郡に昇格する際に発布され、その中で欝島部の行政区域が「欝陵島全島と竹島と石島」、と定められている。そこで韓国側は、発音の近い石島こそが独島に違いないので、一九〇〇年に竹島が韓国領になっていた証拠としたのである。
   しかし独島という呼称は一九〇四年、日本人業者に雇われた韓国人が竹島(当時はリヤンコ島)に渡り、アシカ猟に従事したことから始まる。『勅令第四一号』の四年後である。それに一九〇四年以前、日韓は共に竹島をリヤンコ島と呼んでおり、石島ではなかった(注9)。
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   下條氏は2007年の以降の論説においても石島の比定にはふれていないようです。ところが、2008年2月の「竹島の日」でおこなった講演「日韓新時代と歴史問題の処理」では再度変説したようで、そのレジュメにはこう書かれました(注10)。
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(3)『勅令第41号』(1900年)第2條の石島は独島か
  ①   独島の呼称は1904年頃から、それ以前はリァンコ島
  ②   竹島はチクトウ(于山鳥)、石島(ソクトウ)は島項(観音島)
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   石島を観音島とするレジュメが下條氏の意図どおりだとすれば、下條正男氏はまた変説したようで、この問題に関してもやはり定見がないようです。
(つづく)
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