于山島から石島、獨島へ1
投稿者: hangetsujoh 投稿日時: 2003/04/26 21:48 投稿番号: [1590 / 18519]
半月城です。
これまでの書き込みで明治期における日本側の実状が明らかになったと思います。明治政府は太政官や内務省、外務省、海軍などが竹島=独島は朝鮮領という認識をもちながら竹島=独島をこっそり領土編入(1905)しました。対するに朝鮮はどうだったでしょうか。今回はそれについて書きたいと思います。
1882年、朝鮮政府による鬱陵島検察を契機に同島の空島政策が廃止され、鬱陵島は本格的に開拓され始めました。その時点における鬱陵島近辺の島の認識ですが、下記の高宗の3島認識が鬱陵島住民の証言により裏づけられたことが承政院日記に記されました。したがって、下記(1)は当時の朝鮮政府の認識といえます。
(1)鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+松竹島+芋山島
芋山島、松竹島の位置は単に鬱陵島近傍と記されるのみで、位置など具体的な記録はほとんどありませんでした。かろうじて16年後の地図が参考になる程度です。
1897年、朝鮮政府は国名を大韓帝国と改めましたが、その学部(文部省相当)が1898, 1899年と二年つづけて「大韓全図」を発刊しました。そこには鬱陵島のすぐ近くに于山島が記されましたが松竹島は記されませんでした。かわりに同島の南方に実在しない島が4,5島も想像で描かれました。これを文で表現するとこうなります。
(2)鬱陵島+于山島+4,5島
鬱陵島近辺が不正確になったのは、鬱陵島検察などにおいて周辺の島を実際に探査しなかったので、それらの島の位置を正確に知るすべがなかったことを反映しています。つまり依然として芋山(ウサン)島、松竹島は鬱陵島近傍という認識しかなかったとみえます。
ところで「大韓全図」に松竹島を描かなかったのは、それまでの地図作成の伝統にしたがったためと思われます。それまでの地図で松竹島が明記された地図は1枚もなかったようです。
さて、于山島ですが、これは当時の政府内の認識を考慮すると(1)の同じ発音である芋山島に該当するとみられます。換言すれば、松竹島ではなかったとみられます。ましてや観音島とは考えられません。というのも「大韓全図」が韓国名の竹島を描かずに、鬱陵島直近にあって同島とほとんど一体になっている観音島のみを描くことはまず考えられないからです。
結局、「大韓全図」の于山島が松竹島でもなく観音島でもなければ、残る可能性は竹島=独島のみということになります。この場合、地理上の知識不足から島の位置は実際とかなりずれています。なお、鬱陵島近辺の主な島は、現在の韓国名で竹島、独島、観音島の3島です。これ以外はいずれも鬱陵島本島直近の小さな岩などでまったく問題になりません。
一方、前にも書きましたが、このころになると鬱陵島において日本人の侵略が目にあまるようになりましたが、その現地状況を調べるために 1900年6月、大韓帝国の内部視察官 禹用鼎と、日本の釜山領事館補 赤塚正助による合同出張調査が行われました。内部とは内務省相当の官庁をさします。
禹用鼎の報告にもとづいて、大韓帝国政府は鬱陵島強化策をたてました。鬱陵島の人口が増えたことや「外国人の往来交易」などを考慮し、鬱陵島を郡に格上げしました。公的には勅令41号として官報に公表しました(注1)。勅令は鬱陵島を鬱島と改名し、その管轄区域を鬱陵島全島と竹島、石島としました。
(3)鬱島=鬱陵島全島+竹島+石島
(つづく)
これまでの書き込みで明治期における日本側の実状が明らかになったと思います。明治政府は太政官や内務省、外務省、海軍などが竹島=独島は朝鮮領という認識をもちながら竹島=独島をこっそり領土編入(1905)しました。対するに朝鮮はどうだったでしょうか。今回はそれについて書きたいと思います。
1882年、朝鮮政府による鬱陵島検察を契機に同島の空島政策が廃止され、鬱陵島は本格的に開拓され始めました。その時点における鬱陵島近辺の島の認識ですが、下記の高宗の3島認識が鬱陵島住民の証言により裏づけられたことが承政院日記に記されました。したがって、下記(1)は当時の朝鮮政府の認識といえます。
(1)鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+松竹島+芋山島
芋山島、松竹島の位置は単に鬱陵島近傍と記されるのみで、位置など具体的な記録はほとんどありませんでした。かろうじて16年後の地図が参考になる程度です。
1897年、朝鮮政府は国名を大韓帝国と改めましたが、その学部(文部省相当)が1898, 1899年と二年つづけて「大韓全図」を発刊しました。そこには鬱陵島のすぐ近くに于山島が記されましたが松竹島は記されませんでした。かわりに同島の南方に実在しない島が4,5島も想像で描かれました。これを文で表現するとこうなります。
(2)鬱陵島+于山島+4,5島
鬱陵島近辺が不正確になったのは、鬱陵島検察などにおいて周辺の島を実際に探査しなかったので、それらの島の位置を正確に知るすべがなかったことを反映しています。つまり依然として芋山(ウサン)島、松竹島は鬱陵島近傍という認識しかなかったとみえます。
ところで「大韓全図」に松竹島を描かなかったのは、それまでの地図作成の伝統にしたがったためと思われます。それまでの地図で松竹島が明記された地図は1枚もなかったようです。
さて、于山島ですが、これは当時の政府内の認識を考慮すると(1)の同じ発音である芋山島に該当するとみられます。換言すれば、松竹島ではなかったとみられます。ましてや観音島とは考えられません。というのも「大韓全図」が韓国名の竹島を描かずに、鬱陵島直近にあって同島とほとんど一体になっている観音島のみを描くことはまず考えられないからです。
結局、「大韓全図」の于山島が松竹島でもなく観音島でもなければ、残る可能性は竹島=独島のみということになります。この場合、地理上の知識不足から島の位置は実際とかなりずれています。なお、鬱陵島近辺の主な島は、現在の韓国名で竹島、独島、観音島の3島です。これ以外はいずれも鬱陵島本島直近の小さな岩などでまったく問題になりません。
一方、前にも書きましたが、このころになると鬱陵島において日本人の侵略が目にあまるようになりましたが、その現地状況を調べるために 1900年6月、大韓帝国の内部視察官 禹用鼎と、日本の釜山領事館補 赤塚正助による合同出張調査が行われました。内部とは内務省相当の官庁をさします。
禹用鼎の報告にもとづいて、大韓帝国政府は鬱陵島強化策をたてました。鬱陵島の人口が増えたことや「外国人の往来交易」などを考慮し、鬱陵島を郡に格上げしました。公的には勅令41号として官報に公表しました(注1)。勅令は鬱陵島を鬱島と改名し、その管轄区域を鬱陵島全島と竹島、石島としました。
(3)鬱島=鬱陵島全島+竹島+石島
(つづく)
これは メッセージ 1582 (hangetsujoh さん)への返信です.
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