Re: 田邉太一の「于山」認識
投稿者: ararenotomo 投稿日時: 2007/04/28 18:12 投稿番号: [15550 / 18519]
take_8591 さん
「田邉太一の「于山」認識」に対する批判、有難うございます。
>田辺太一がこの「松島」を、鬱陵島、チェクド、リャンコ島の何れであると考えていたかは確定させようがありません。
いいえ、田邉太一は「開拓願」の「松島」が鬱陵島であると確信していました。北澤正誠『竹島考證』(1881)によると、浦潮港貿易事務官瀬脇壽人は、明治9年12月19日に出された齊藤七郎兵衛の「松島開島願書并建言」を明治10年4月25日付で、また、明治10年5月6日に提出された武藤平學の「松島開島之建白」を6月25日付で上申しました。田邉は、齊藤の上申書に対し「松島ハ朝鮮ノ欝陵島ニシテ我版図中ナラズ斉藤某ノ願意ハ許可スルノ権ナキ旨答フベシ」の附ケ札をしました。また、武藤の上申書には「松島ハ朝鮮ノ欝陵島ニシテ我版図中ノモノナラズ文化年間(arare註:これは記憶違い)既ニ朝鮮政府ト往復ノ書アリト覚ユ我ニテ開墾着手スルハ固ヨリアルマシキ事由ヲ答フル事然ルヘシ - -」との附ケ札をしております。従って、田邉太一は「開拓願」の「松島」をチェクド、リャンコ島とは考えておりません。
>田辺太一は、「松島ハ(略)蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と述べているところから、于山島=松島=鬱陵島となります。
いいえ、蔚陵島は鬱陵島の別名ですから、于山島=鬱陵島とはなりません。
① ② ③ ④ ⑤ は「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」をどのように理解するかの問題と思います。
この地域で松島という名の島は二つだけです。即ち、隠岐と鬱陵島(竹島)の間にある古くからの松島と、1840年シーボルトが鬱陵島に誤って付けた松島です。田邉太一は「開拓願の松島」を鬱陵島と確信していましたから、「松島ハ - - 其実ハ(実際は)朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と書き、これだけで、この松島は「古来の松島」と分ります。ただし、「我邦人ノ命セル名ニシテ」を入れたのは、この松島が「古来の松島」であることを更に明確にすると共に、欧米人の誤った松島という名称で、「鬱陵島開拓願」が繰り返し何度も出されたのを、苦々しく思ったからかもしれません。
>④ そして田邉は、「開拓願の松島」=「朝鮮蔚陵島に属する于山」であると認識していました。
いいえ、田邉は、「開拓願の松島」は鬱陵島と確信していますから、「開拓願の松島」=「朝鮮蔚陵島に属する于山」であるとは決して認識していません。田邉にとって松島は、『隠州視聴合記』『竹島圖説』『竹島考』等に記され、日本人が古くから知っていた松島で、それが「朝鮮蔚陵島に属する于山」です。
>⑤ すると、「松島ハ于山ナリ」は、元禄の外交文書に示される朝鮮政府の解釈を継承し、川上健三氏のように「風日晴明則可望見」を鬱陵島を本土から見た記事と読みとったことを示します。
上記のように、「松島ハ于山ナリ」の松島は、鬱陵島ではなく「古来の松島」ですから、「于山武陵本二島相距不遠風日晴明則可望見」で、武陵(鬱陵島)から望み見ることのできる島は、于山即ち「古来の松島」です。
田邉太一は、「松島巡視要否ノ議」で、「蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ文書往復ノ末永ク証テ我有トセサルヲ約シ載テ両国ノ史ニ在リ今故ナク人ヲ遣テコレヲ巡視セシム此ヲ他人ノ宝ヲ數フトイフ况ヤ跡隣境ヲ侵越スルニ類シ我ト韓トノ交漸ク緒ニ就クトイヘトモ猜嫌猶未全ク除カサルニ際シ如此一挙ヨリシテ再ヒ一隙ヲ開カンコト尤交際家ノ忌ム所ナルベシ - - 松島断シテ開ク能ワス又開クベカラス其不能不可ヲ知テコレヲ巡視スル豈無益ナラサランヤ况ヤ後害ヲ醸サントスルオヤ」とかなり激しい言葉で「松島巡視」に反対しております。
「明治政府に出仕してからの田辺は常に沈黙無為を旨とし、政府の施政に吾不関焉の態度をとることが多かった」(田辺太一『幕末外交談』平凡社, 1966, 坂田精一「解説」)とされる田邉にしては珍しいことです。田邉は、他国の領土も巡視するだけなら可とする一部の姿勢に、幕末自らが対峙した列強の姿を重ねたのかもしれません。新政府は結局、田邉の「正論」を容れ、「松島巡視」は実行されませんでした。
「田邉太一の「于山」認識」に対する批判、有難うございます。
>田辺太一がこの「松島」を、鬱陵島、チェクド、リャンコ島の何れであると考えていたかは確定させようがありません。
いいえ、田邉太一は「開拓願」の「松島」が鬱陵島であると確信していました。北澤正誠『竹島考證』(1881)によると、浦潮港貿易事務官瀬脇壽人は、明治9年12月19日に出された齊藤七郎兵衛の「松島開島願書并建言」を明治10年4月25日付で、また、明治10年5月6日に提出された武藤平學の「松島開島之建白」を6月25日付で上申しました。田邉は、齊藤の上申書に対し「松島ハ朝鮮ノ欝陵島ニシテ我版図中ナラズ斉藤某ノ願意ハ許可スルノ権ナキ旨答フベシ」の附ケ札をしました。また、武藤の上申書には「松島ハ朝鮮ノ欝陵島ニシテ我版図中ノモノナラズ文化年間(arare註:これは記憶違い)既ニ朝鮮政府ト往復ノ書アリト覚ユ我ニテ開墾着手スルハ固ヨリアルマシキ事由ヲ答フル事然ルヘシ - -」との附ケ札をしております。従って、田邉太一は「開拓願」の「松島」をチェクド、リャンコ島とは考えておりません。
>田辺太一は、「松島ハ(略)蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と述べているところから、于山島=松島=鬱陵島となります。
いいえ、蔚陵島は鬱陵島の別名ですから、于山島=鬱陵島とはなりません。
① ② ③ ④ ⑤ は「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」をどのように理解するかの問題と思います。
この地域で松島という名の島は二つだけです。即ち、隠岐と鬱陵島(竹島)の間にある古くからの松島と、1840年シーボルトが鬱陵島に誤って付けた松島です。田邉太一は「開拓願の松島」を鬱陵島と確信していましたから、「松島ハ - - 其実ハ(実際は)朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と書き、これだけで、この松島は「古来の松島」と分ります。ただし、「我邦人ノ命セル名ニシテ」を入れたのは、この松島が「古来の松島」であることを更に明確にすると共に、欧米人の誤った松島という名称で、「鬱陵島開拓願」が繰り返し何度も出されたのを、苦々しく思ったからかもしれません。
>④ そして田邉は、「開拓願の松島」=「朝鮮蔚陵島に属する于山」であると認識していました。
いいえ、田邉は、「開拓願の松島」は鬱陵島と確信していますから、「開拓願の松島」=「朝鮮蔚陵島に属する于山」であるとは決して認識していません。田邉にとって松島は、『隠州視聴合記』『竹島圖説』『竹島考』等に記され、日本人が古くから知っていた松島で、それが「朝鮮蔚陵島に属する于山」です。
>⑤ すると、「松島ハ于山ナリ」は、元禄の外交文書に示される朝鮮政府の解釈を継承し、川上健三氏のように「風日晴明則可望見」を鬱陵島を本土から見た記事と読みとったことを示します。
上記のように、「松島ハ于山ナリ」の松島は、鬱陵島ではなく「古来の松島」ですから、「于山武陵本二島相距不遠風日晴明則可望見」で、武陵(鬱陵島)から望み見ることのできる島は、于山即ち「古来の松島」です。
田邉太一は、「松島巡視要否ノ議」で、「蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ文書往復ノ末永ク証テ我有トセサルヲ約シ載テ両国ノ史ニ在リ今故ナク人ヲ遣テコレヲ巡視セシム此ヲ他人ノ宝ヲ數フトイフ况ヤ跡隣境ヲ侵越スルニ類シ我ト韓トノ交漸ク緒ニ就クトイヘトモ猜嫌猶未全ク除カサルニ際シ如此一挙ヨリシテ再ヒ一隙ヲ開カンコト尤交際家ノ忌ム所ナルベシ - - 松島断シテ開ク能ワス又開クベカラス其不能不可ヲ知テコレヲ巡視スル豈無益ナラサランヤ况ヤ後害ヲ醸サントスルオヤ」とかなり激しい言葉で「松島巡視」に反対しております。
「明治政府に出仕してからの田辺は常に沈黙無為を旨とし、政府の施政に吾不関焉の態度をとることが多かった」(田辺太一『幕末外交談』平凡社, 1966, 坂田精一「解説」)とされる田邉にしては珍しいことです。田邉は、他国の領土も巡視するだけなら可とする一部の姿勢に、幕末自らが対峙した列強の姿を重ねたのかもしれません。新政府は結局、田邉の「正論」を容れ、「松島巡視」は実行されませんでした。
これは メッセージ 15547 (take_8591 さん)への返信です.
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