下條正男氏の変説、竹島外一島(2)
投稿者: ban_wol_seong 投稿日時: 2007/01/27 20:19 投稿番号: [15347 / 18519]
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磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里ばかりのところにある。周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。川は3条ある。また滝がある。しかし、谷は深く、うっそうと樹木や竹が繁り、水源を知ることはできない。
・・・
魚貝は枚挙にいとまがない。なかんずく、アシカ、アワビが物産の代表である。アワビを採るのに、夕方に竹を海に投げ、朝にこれを引き上げれば、枝葉につくアワビは無数である。その味は絶倫である。またアシカ一頭から数斗の油を得ることができる。
次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣を産する。
永禄年間(1558-1569)に伯耆(ほうき)国・会見郡米子町の商人、大屋(のちに大谷と改名)甚吉が航海で越後より帰るさい、熱帯性低気圧に遭遇し、この地に漂流した。ついに全島を巡視したところ、すこぶる魚貝に富んでいるのを知り、帰国の日、検使の安倍四郎五郎 <時に幕名により米子城に居る>にそのおもむきを申し出、以後、渡海を申請した。安倍氏が江戸に紹介して、許可書を得た。じつに元和4年(1618)5月16日である(注3)。
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下條氏は、大谷家が永禄年間に漂流した「この地」を松島と解釈したようです。しかし、それは無理ではないでしょうか。松島は竹島と違って、周囲が30町、約3.3㎞の小さな島であり、あらためて「全島を巡視」するまでもありません。全島を巡視したのは周囲が10里もあり、付属文書の主題をなす竹島であることは文脈から明らかです。
具体的には、上記の文章で魚貝が豊富としているのは竹島であり、松島は「魚や獣を産する」とのみ記し、豊富であるとの記述がないばかりか、貝についての記述もありません。「この地」は竹島(欝陵島)とするのが妥当です。
さらに歴史的にも大谷家が松島へ渡海を申し出たのは上記に書かれた1618年ころではなく、1650年代だったことが大谷家文書「幕府巡検使に対する請書」から知られています。
このように、うえの文章における「永禄年間」以降の説明は松島ではなく、竹島に終始していることが明白で、したがって「この地」は松島ではあり得ません。
他方、下條氏は今回の変説の他の根拠として「当時の政府発行の地図」と称して日本の陸軍参謀局が作製した「亜細亜東部輿地図」を持ちだしましが、これには開いた口がふさがりません。今回、太政官指令を問題にしているのにもかかわらず、その関係文書に付属している「磯竹島略図」を引用しないのは、まぎれもない資料の恣意的引用ではないでしょうか。磯竹島略図をみれば、太政官が放棄した松島が今日の竹島=独島であることが明らかなので、わざと他の地図を引っぱりだしたのでしょうか(注4)。
ここで、下條氏が磯竹島略図を知らなかったかというと、決してそんなことはありません。下條座長を含む竹島問題研究会が昨年11月上旬に韓国を訪問した時、韓国の研究者からその地図を突きつけられたので、よもや忘れるはずはありません。
これまで下條正男氏はしばしば「我田引水的文献解釈」を諫めていましたが、今回の変説はその見本ではないでしょうか。そんな下條氏の「研究」発表が「竹島研究会」ではまかりとおっているようです。
(注1)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004、P123
(注2)山陰中央新報 2006/12/10
「竹島・太政官決定文書で下條氏が新たな見解」
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=335284006
(注3)原文および解説は、半月城通信「明治政府、竹島=独島の版図外確認」
http://www.han.org/a/half-moon/hm113.html#No.846
(注4)磯竹島略図
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/map/koubunroku_map.pdf
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里ばかりのところにある。周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。川は3条ある。また滝がある。しかし、谷は深く、うっそうと樹木や竹が繁り、水源を知ることはできない。
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魚貝は枚挙にいとまがない。なかんずく、アシカ、アワビが物産の代表である。アワビを採るのに、夕方に竹を海に投げ、朝にこれを引き上げれば、枝葉につくアワビは無数である。その味は絶倫である。またアシカ一頭から数斗の油を得ることができる。
次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣を産する。
永禄年間(1558-1569)に伯耆(ほうき)国・会見郡米子町の商人、大屋(のちに大谷と改名)甚吉が航海で越後より帰るさい、熱帯性低気圧に遭遇し、この地に漂流した。ついに全島を巡視したところ、すこぶる魚貝に富んでいるのを知り、帰国の日、検使の安倍四郎五郎 <時に幕名により米子城に居る>にそのおもむきを申し出、以後、渡海を申請した。安倍氏が江戸に紹介して、許可書を得た。じつに元和4年(1618)5月16日である(注3)。
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下條氏は、大谷家が永禄年間に漂流した「この地」を松島と解釈したようです。しかし、それは無理ではないでしょうか。松島は竹島と違って、周囲が30町、約3.3㎞の小さな島であり、あらためて「全島を巡視」するまでもありません。全島を巡視したのは周囲が10里もあり、付属文書の主題をなす竹島であることは文脈から明らかです。
具体的には、上記の文章で魚貝が豊富としているのは竹島であり、松島は「魚や獣を産する」とのみ記し、豊富であるとの記述がないばかりか、貝についての記述もありません。「この地」は竹島(欝陵島)とするのが妥当です。
さらに歴史的にも大谷家が松島へ渡海を申し出たのは上記に書かれた1618年ころではなく、1650年代だったことが大谷家文書「幕府巡検使に対する請書」から知られています。
このように、うえの文章における「永禄年間」以降の説明は松島ではなく、竹島に終始していることが明白で、したがって「この地」は松島ではあり得ません。
他方、下條氏は今回の変説の他の根拠として「当時の政府発行の地図」と称して日本の陸軍参謀局が作製した「亜細亜東部輿地図」を持ちだしましが、これには開いた口がふさがりません。今回、太政官指令を問題にしているのにもかかわらず、その関係文書に付属している「磯竹島略図」を引用しないのは、まぎれもない資料の恣意的引用ではないでしょうか。磯竹島略図をみれば、太政官が放棄した松島が今日の竹島=独島であることが明らかなので、わざと他の地図を引っぱりだしたのでしょうか(注4)。
ここで、下條氏が磯竹島略図を知らなかったかというと、決してそんなことはありません。下條座長を含む竹島問題研究会が昨年11月上旬に韓国を訪問した時、韓国の研究者からその地図を突きつけられたので、よもや忘れるはずはありません。
これまで下條正男氏はしばしば「我田引水的文献解釈」を諫めていましたが、今回の変説はその見本ではないでしょうか。そんな下條氏の「研究」発表が「竹島研究会」ではまかりとおっているようです。
(注1)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004、P123
(注2)山陰中央新報 2006/12/10
「竹島・太政官決定文書で下條氏が新たな見解」
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=335284006
(注3)原文および解説は、半月城通信「明治政府、竹島=独島の版図外確認」
http://www.han.org/a/half-moon/hm113.html#No.846
(注4)磯竹島略図
http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/map/koubunroku_map.pdf
(半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/
これは メッセージ 15346 (ban_wol_seong さん)への返信です.
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