『琉球国絵図』に尖閣諸島は書かれていない
投稿者: Tanaka_Kunitaka 投稿日時: 2006/08/13 17:14 投稿番号: [14860 / 18519]
徳川幕府は全国を統一したあと、正保年間(1644〜1647年)に六寸一里という統一した縮尺による全国の地図の作成を各藩に命じた。薩摩藩の島津家文書として保存されてきた薩摩国絵図と琉球国絵図が東京大学史料編纂所に保存されており、その原寸大模写が東京大学史料編纂所史料集発刊100周年記念事業として2001年12月に東京国立博物館で公開された。琉球国絵図は奄美諸島、沖縄本島、先島諸島の3枚からなっており、それぞれが一辺3メートルから6メートルに及ぶ巨大な手書き図である。先島諸島の宮古島の北にある珊瑚礁まで鮮やかに描かれた大変見事な地図で、当時の測量の精度の高さに感嘆せざるをえない。1609年の島津藩の琉球進攻以来、琉球国は中国と日本のいずれにも従属する両属関係にあり、琉球国と清国との境界を不確かなままにすることなどありえない。この絵図に描かれているのはあくまでも琉球とそれに付属する三十六島である。[9]
琉球に属する島嶼は三十六島で、そこには釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼は含まれないということは琉球、中国、日本の共通した認識であった。これは地理的観点からしても十分に理解できる。釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼はいずれも大陸棚の縁に位置し、その周辺は200メートル以下の浅い海である。そこから久米島をはじめとする琉球の島々との間には1000〜2000メートルに達する海溝が存在し、しかも黒潮の流れがある。小舟では容易に渡れるものではなかった。それにたいして琉球本島と先島諸島の間は島々が点在し、浅海が続き、琉球の人々は小舟で自由に往来できた。だから琉球のネットワークが実現できていたのである。当時、スペインの貿易商は先島諸島伝いに進めば「毎日夜は陸上で寝て行くことができる」と記していた。そのような安全な海路が存在しているにも関わらず、なぜ冊封使は釣魚島→黄尾嶼→赤尾嶼→久米島というルートで那覇に向かったのであろうか。民間貿易ではなく、国家を代表する使節の派遣であるため、公式のルートを使うことが当然要求されていたからに他ならない。領土・領海意識は明確であり、無主地論は成立しない。
http://www.geocities.jp/ktakai22/murata.html
上記論文は、下記のサイトでも中国語で読めます。
http://www.japanresearch.org.tw/index.asp
http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/map/okinawa.html
琉球に属する島嶼は三十六島で、そこには釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼は含まれないということは琉球、中国、日本の共通した認識であった。これは地理的観点からしても十分に理解できる。釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼はいずれも大陸棚の縁に位置し、その周辺は200メートル以下の浅い海である。そこから久米島をはじめとする琉球の島々との間には1000〜2000メートルに達する海溝が存在し、しかも黒潮の流れがある。小舟では容易に渡れるものではなかった。それにたいして琉球本島と先島諸島の間は島々が点在し、浅海が続き、琉球の人々は小舟で自由に往来できた。だから琉球のネットワークが実現できていたのである。当時、スペインの貿易商は先島諸島伝いに進めば「毎日夜は陸上で寝て行くことができる」と記していた。そのような安全な海路が存在しているにも関わらず、なぜ冊封使は釣魚島→黄尾嶼→赤尾嶼→久米島というルートで那覇に向かったのであろうか。民間貿易ではなく、国家を代表する使節の派遣であるため、公式のルートを使うことが当然要求されていたからに他ならない。領土・領海意識は明確であり、無主地論は成立しない。
http://www.geocities.jp/ktakai22/murata.html
上記論文は、下記のサイトでも中国語で読めます。
http://www.japanresearch.org.tw/index.asp
http://jpimg.digital.archives.go.jp/kouseisai/map/okinawa.html
これは メッセージ 14854 (Tanaka_Kunitaka さん)への返信です.
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