よくわかる 隠州視聴合紀「国代記」
投稿者: torezojp 投稿日時: 2006/06/16 00:36 投稿番号: [14639 / 18519]
1667年8月、出雲松江藩の隠岐郡代・齋藤豊仙が、約2ヶ月を掛けて隠州を巡察した際、「視て」「聴いて」採録したものを記した近世隠岐の地誌である。
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1.隠州在北海中故〔云〕隠岐嶋(割注)「按、倭訓海中言遠幾故名歟」、
其在巽地言島前也、知夫郡・海部郡属焉、
其位震地言島後、周吉郡・穏地郡属焉、其府者周吉郡南岸西郷豊崎也、
2.従是南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、
3.戌亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島(割注)「俗言磯竹島・、多竹・魚・海鹿〔、按、神言所謂五十猛歟〕」、
4.此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠岐、然則日本之乾地、以此州為限矣、
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1.隠岐国は北海中にあるがゆえに(島名を)隠岐嶋という。 (割注)「按ずるに、倭訓に海中を遠幾(おき〉というゆえの名か。」 南東にあるものを島前というなり。知夫郡・海部郡これに属す。
東にくらいするを島後という。周吉郡・穏地郡これに属す。その府は周吉郡南岸西郷豊崎なり。
2.これより南は、出雲国美穂関に至ること三十五里、南東は、伯耆国赤碕浦に至ること四十里、南西は、石見国温泉津に至ること五十八里、北から東に至る往くべき地無し。
3.戌と亥のあいだの方角(概ね北西方向)へ行くこと二日一夜にして松島あり、そこ(松島)からさらに一日ほどで竹島あり。 (割注)「(俗に磯竹島という。竹・魚・海鹿、多し。)(按ずるに、神書にいういわゆる五十猛か。)」
4.この二島(松島・竹島)は人無きの地、高麗を見ること雲州より隠岐を望むが如し。然らば則ち、日本の北西の地はこの州(シマ)をもって限りとす。
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1.隠岐国の(歴史的)構成について述べた部分
2.隠岐を基点に4方位に何があるかを述べた部分
3.隠岐を基点に乾の方位に(新規に)何があるかを述べた部分
4.1.〜3.を踏まえて日本(の本土)と、隣国(高麗)と、隠岐の国の位置関係を述べた部分
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1.は斉藤豊仙が従来の隠岐の古紀を借文したものである。江戸時代(現代も同じ)の方位より45度から60度弱位、時計回りにズレがあることから推論される。エビデンスとして隠州視聴合記の付属の隠岐の地図を見れば明らかであろう。付属の隠岐の地図の方位に問題はない。従って、2.〜3.で隠岐を基点にした方位は、ほぼ現在の方位と同様である。また江戸時代は卯辰巳等12支で方位を表したが古は震兌坎艮等が用いられた。ということは、斉藤豊仙に依り新たに加えられた文書は、2.以降の部分の記載であろう。
即ち、隠岐の地誌に斉藤豊仙が隠岐に関して記述したのは「従是南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、戌亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島(割注)「俗言磯竹島・、多竹・魚・海鹿〔、按、神言所謂五十猛歟〕」、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠岐、然則日本之乾地、以此州為限矣、」ということになる。
このことより「然則」で齋藤豊仙が強調したのは、「日本の北西の地はこの州(シマ)をもって限りとす。」であるとの結論が導かれる。古(いにしえ)には「隱州戌亥之極地昧暗也」とされたこともあったが、隠州視聴合紀が記述された時代には、日本の戌亥の最果ての地は竹島となることへの斉藤豊仙の感慨がひしひし伝わってくるではないか。
それにしても「然らば則ち、日本の北西の地はこの州(シマ)をもって限りとす。」の伏線として、後の巻二・周吉郡・元谷村の節で「按此日月の祭古之遺法歟 書曰味谷寅餞納日 本朝亦曾行此禮歟 隱州戌亥之極地昧暗也 與元立日相近也 上古於是餞納日 亦未可知焉 爲好古人姑記備之」の文言をさりげなく記述したところなぞ、レトリックとして、まさに心憎いばかりである。
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1.隠州在北海中故〔云〕隠岐嶋(割注)「按、倭訓海中言遠幾故名歟」、
其在巽地言島前也、知夫郡・海部郡属焉、
其位震地言島後、周吉郡・穏地郡属焉、其府者周吉郡南岸西郷豊崎也、
2.従是南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、
3.戌亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島(割注)「俗言磯竹島・、多竹・魚・海鹿〔、按、神言所謂五十猛歟〕」、
4.此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠岐、然則日本之乾地、以此州為限矣、
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1.隠岐国は北海中にあるがゆえに(島名を)隠岐嶋という。 (割注)「按ずるに、倭訓に海中を遠幾(おき〉というゆえの名か。」 南東にあるものを島前というなり。知夫郡・海部郡これに属す。
東にくらいするを島後という。周吉郡・穏地郡これに属す。その府は周吉郡南岸西郷豊崎なり。
2.これより南は、出雲国美穂関に至ること三十五里、南東は、伯耆国赤碕浦に至ること四十里、南西は、石見国温泉津に至ること五十八里、北から東に至る往くべき地無し。
3.戌と亥のあいだの方角(概ね北西方向)へ行くこと二日一夜にして松島あり、そこ(松島)からさらに一日ほどで竹島あり。 (割注)「(俗に磯竹島という。竹・魚・海鹿、多し。)(按ずるに、神書にいういわゆる五十猛か。)」
4.この二島(松島・竹島)は人無きの地、高麗を見ること雲州より隠岐を望むが如し。然らば則ち、日本の北西の地はこの州(シマ)をもって限りとす。
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1.隠岐国の(歴史的)構成について述べた部分
2.隠岐を基点に4方位に何があるかを述べた部分
3.隠岐を基点に乾の方位に(新規に)何があるかを述べた部分
4.1.〜3.を踏まえて日本(の本土)と、隣国(高麗)と、隠岐の国の位置関係を述べた部分
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1.は斉藤豊仙が従来の隠岐の古紀を借文したものである。江戸時代(現代も同じ)の方位より45度から60度弱位、時計回りにズレがあることから推論される。エビデンスとして隠州視聴合記の付属の隠岐の地図を見れば明らかであろう。付属の隠岐の地図の方位に問題はない。従って、2.〜3.で隠岐を基点にした方位は、ほぼ現在の方位と同様である。また江戸時代は卯辰巳等12支で方位を表したが古は震兌坎艮等が用いられた。ということは、斉藤豊仙に依り新たに加えられた文書は、2.以降の部分の記載であろう。
即ち、隠岐の地誌に斉藤豊仙が隠岐に関して記述したのは「従是南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、戌亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島(割注)「俗言磯竹島・、多竹・魚・海鹿〔、按、神言所謂五十猛歟〕」、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠岐、然則日本之乾地、以此州為限矣、」ということになる。
このことより「然則」で齋藤豊仙が強調したのは、「日本の北西の地はこの州(シマ)をもって限りとす。」であるとの結論が導かれる。古(いにしえ)には「隱州戌亥之極地昧暗也」とされたこともあったが、隠州視聴合紀が記述された時代には、日本の戌亥の最果ての地は竹島となることへの斉藤豊仙の感慨がひしひし伝わってくるではないか。
それにしても「然らば則ち、日本の北西の地はこの州(シマ)をもって限りとす。」の伏線として、後の巻二・周吉郡・元谷村の節で「按此日月の祭古之遺法歟 書曰味谷寅餞納日 本朝亦曾行此禮歟 隱州戌亥之極地昧暗也 與元立日相近也 上古於是餞納日 亦未可知焉 爲好古人姑記備之」の文言をさりげなく記述したところなぞ、レトリックとして、まさに心憎いばかりである。
これは メッセージ 14582 (kana_ikeuchi さん)への返信です.
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