>隠州視聴合紀「国代記」考
投稿者: kana_ikeuchi 投稿日時: 2005/07/17 00:23 投稿番号: [10165 / 18519]
隠州視聴合紀「国代記」考
【転写開始】
【引用開始】
其沖に松島あり、上に松生て樹聞に荒園あり、長事二町ばかり、昔好事者此州に雉の無事を愁て、試に雲州より雌雄を渡して此に放つ、一年を経て終に亡と云(『続々群書類従』第九、四六五頁下段)
「此州」の「此(この)』に対応すべき適当な固有名詞が存在しない。仮に「州」は「島」の意だとして、直近の「松島」が「此州」に該当するとしてみよう。「昔好事者」以下は、「昔ある好事家が、松島に雉がいないことを残念に思って、こころみに出雲国から雌雄の雉をつれてきて松島に放したところ、(繁殖に失敗し)一年後にはいなくなった」となる。しかしながら、島後周吉郡蛸木浦沖合いの松島に雄がいないからといって、隠岐国内の他所から連れてくるのではなく、わざわざ出雲国から雉を連れてくる、とする記述はいささか不自然な話である。「此州−にいないから「雲州(出雲国〉」より連れてきた、とする語の釣り合いからすれば、やはりここは「隠州(隠岐国)とするのが妥当だろう。「松島』が「此州」に該当するわけではない。この「州」は「島」の意とはならない。
財団法人韓国文化研究振興財団-青丘学術論集2005年3
月「前近代竹島の歴史学的 研究序説」−「隠州視聴合記』
の解釈をめぐって」池内敏(P152)
【引用終わり】
【torezojp】:
この「州」は「島」の意となるとすればなどと、時には発想を変えてみることも必要でなかろうか。
「昔変わり者の物好きが松島に雉がいないことを物足りなく思って、試みに出雲(国)から雌雄の雉を連れてきて松島に放したところ、一年後にはいなくなった。雉には羽が有ることを忘れていたところが、いかにも変わり者の物好きらしい。恐らく島後にでも移り棲んでその子孫を増やしたことだろうよ。」
と読めないものかねぇ、そうすりゃ、愚老には裃を着た豊仙が「老子」のように思えるのだがサ。
--------------------------------
1.隠州在北海中故〔云〕隠岐嶋(割注)「按、倭訓海中言遠幾故名歟」、
其在巽地言島前也、知夫郡・海部郡属焉、
其位震地言島後、周吉郡・穏地郡属焉、其府者周吉郡南岸西郷豊崎也、
2.従是南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、
3.戌亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島(割注)「俗言磯竹島・、多竹・魚・海鹿〔、按、神言所謂五十猛歟〕」、
4.此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠岐、然則日本之乾地、以此州為限矣、
-------------------------------- -
1.は斉藤豊仙が従来の隠岐の古紀を借文したものである。江戸時代(現代も同じ)の方位より45度から60度弱位、時計回りにズレがあることから推論される。エビデンスとして隠州視聴合記の付属の隠岐の地図を見れば明らかであろう。付属の隠岐の地図の方位に問題はない。従って、2.〜3.で隠岐を基点にした方位は、ほぼ現在の方位と同様である。また江戸時代は卯辰巳等12支で方位を表したが古は震兌坎艮等が用いられた。ということは、斉藤豊仙に依り新たに加えられた文書は、2.以降の部分の記載であろう。
即ち、隠岐の地誌に斉藤豊仙が隠岐に関して記述したのは「従是南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、戌亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島(割注)「俗言磯竹島・、多竹・魚・海鹿〔、按、神言所謂五十猛歟〕」、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠岐、然則日本之乾地、以此州為限矣、」ということになる。
このことより「然則」で齋藤豊仙が強調したのは「日本の北西の地はこの州をもって限りとす。」から、則ち、「日本の北西の地はこの嶋(竹島)をもって限りとす。」であるとの結論が自ずと導かれる。
【転写終わり】
とれぞ〜の傑作だと思うのだけど 粋であたしは好きよ。
【転写開始】
【引用開始】
其沖に松島あり、上に松生て樹聞に荒園あり、長事二町ばかり、昔好事者此州に雉の無事を愁て、試に雲州より雌雄を渡して此に放つ、一年を経て終に亡と云(『続々群書類従』第九、四六五頁下段)
「此州」の「此(この)』に対応すべき適当な固有名詞が存在しない。仮に「州」は「島」の意だとして、直近の「松島」が「此州」に該当するとしてみよう。「昔好事者」以下は、「昔ある好事家が、松島に雉がいないことを残念に思って、こころみに出雲国から雌雄の雉をつれてきて松島に放したところ、(繁殖に失敗し)一年後にはいなくなった」となる。しかしながら、島後周吉郡蛸木浦沖合いの松島に雄がいないからといって、隠岐国内の他所から連れてくるのではなく、わざわざ出雲国から雉を連れてくる、とする記述はいささか不自然な話である。「此州−にいないから「雲州(出雲国〉」より連れてきた、とする語の釣り合いからすれば、やはりここは「隠州(隠岐国)とするのが妥当だろう。「松島』が「此州」に該当するわけではない。この「州」は「島」の意とはならない。
財団法人韓国文化研究振興財団-青丘学術論集2005年3
月「前近代竹島の歴史学的 研究序説」−「隠州視聴合記』
の解釈をめぐって」池内敏(P152)
【引用終わり】
【torezojp】:
この「州」は「島」の意となるとすればなどと、時には発想を変えてみることも必要でなかろうか。
「昔変わり者の物好きが松島に雉がいないことを物足りなく思って、試みに出雲(国)から雌雄の雉を連れてきて松島に放したところ、一年後にはいなくなった。雉には羽が有ることを忘れていたところが、いかにも変わり者の物好きらしい。恐らく島後にでも移り棲んでその子孫を増やしたことだろうよ。」
と読めないものかねぇ、そうすりゃ、愚老には裃を着た豊仙が「老子」のように思えるのだがサ。
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1.隠州在北海中故〔云〕隠岐嶋(割注)「按、倭訓海中言遠幾故名歟」、
其在巽地言島前也、知夫郡・海部郡属焉、
其位震地言島後、周吉郡・穏地郡属焉、其府者周吉郡南岸西郷豊崎也、
2.従是南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、
3.戌亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島(割注)「俗言磯竹島・、多竹・魚・海鹿〔、按、神言所謂五十猛歟〕」、
4.此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠岐、然則日本之乾地、以此州為限矣、
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1.は斉藤豊仙が従来の隠岐の古紀を借文したものである。江戸時代(現代も同じ)の方位より45度から60度弱位、時計回りにズレがあることから推論される。エビデンスとして隠州視聴合記の付属の隠岐の地図を見れば明らかであろう。付属の隠岐の地図の方位に問題はない。従って、2.〜3.で隠岐を基点にした方位は、ほぼ現在の方位と同様である。また江戸時代は卯辰巳等12支で方位を表したが古は震兌坎艮等が用いられた。ということは、斉藤豊仙に依り新たに加えられた文書は、2.以降の部分の記載であろう。
即ち、隠岐の地誌に斉藤豊仙が隠岐に関して記述したのは「従是南〔ノ方〕至雲州美穂関三十五里、辰巳〔ノ方〕至伯州赤碕浦四十里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯無可往地、戌亥間行二日一夜有松島、又一日程有竹島(割注)「俗言磯竹島・、多竹・魚・海鹿〔、按、神言所謂五十猛歟〕」、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠岐、然則日本之乾地、以此州為限矣、」ということになる。
このことより「然則」で齋藤豊仙が強調したのは「日本の北西の地はこの州をもって限りとす。」から、則ち、「日本の北西の地はこの嶋(竹島)をもって限りとす。」であるとの結論が自ずと導かれる。
【転写終わり】
とれぞ〜の傑作だと思うのだけど 粋であたしは好きよ。
これは メッセージ 1 (ritiarno さん)への返信です.
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