>「人を殺す」ことを目的に
投稿者: kuuboakagi00 投稿日時: 2005/07/14 22:20 投稿番号: [27527 / 43168]
存在しているのではないから。運用する側なんじゃぁ無いかと。
車は人を殺すことを目的につくられているわけではないが、車の数が増えると(日本での最初の車の事故は皇居の堀に車が落っこちたことだったかな)事故がおきることは不可避というのも真実。
人を殺すことを「目的」としていなくても、人を不可避的に殺すなら、殺す機能を車(もしくは車社会)は不可避的にもっていることになる。
この不可避の殺人「機能」にもかかわらず(車社会は必ず人を殺す。運用側の問題などといっても、問題が解決するわけではない)、車が許されるという理由として、昭和40年ころから、「許された危険」の法理などと言うのが刑法学でとなえられはじめたな。(もし車社会が必ず人を殺すなら、車を運転すること自体が違法とされるべきではないのか、という論に反対するために)。
人は犯罪者になる「目的」で生まれてきたのではないが、犯罪者のいない社会はない。個々人の人間としての自分自身の「運用の問題」、などとはいえまい。「目的」がなくても目的と同じ機能をもつものが存在する。
あなたの論では、目的が人をころすことではないから、車社会による殺人は問題とされない、という結論になるようだが。
車社会にだけ目的が重視されるのもふしぎだが。
ゲリラ、テロ側の自己存在・レーゾンデートルの証明の件はどうなったのかな。抑圧があるから反抗(ゲリラ、テロ)が生じる、とするなら、まず反抗に値する抑圧があることを証明しないと。
これは メッセージ 27522 (daremogatigau さん)への返信です.
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