>唐人行1
投稿者: ahirutousagi2 投稿日時: 2003/08/18 21:59 投稿番号: [1941 / 43168]
>徳川幕府末期、幕府政府は外国人と少しでも血の混ぜた日本人は男女を問わずに
中国や東南アジアに追放してしまった。しかし彼らはどこの国に行っても言葉が
通じなく土方、或いは女性は酒を売ったり体を売らなければならなかった。
山崎朋子でさえ「徳川幕府は、その鎖国政策のあいだ、外国人の血の混じった日本人を
邪宗門のレッテルを張って中国や東南アジアに追い払ったが、
彼あるいは彼女等に、言葉も通じない異国においてできることといっては、
肉体労働と春を売ることのほかになかったにちがいない。(アジア女性交流史)」
と推測の形をとっている。
一求知か柳在順か知らんが、ちょっと何でも断言する語調の癖があるらしい。
ちなみに追い払ったのは幕末に始まることではあるまい。
鎖国令(1636年、寛永13年令)の時点で南蛮系287人をマカオに追放、
その後、1639年には「紅毛」系を追放した。
ちなみに、このソースは高校「日本史」の参考書。
また、私はよく知らんが、「少しでも」血が混ざったら追放されたのかな。
シーボルトの娘は?
>実はこの人たちが民間人としては最初、外国に出た人たちである。
それはない。
>1866年(慶応2年)幕府政府は幕府による鎖国令の代わりに海外渡航許可
条令を制定し、1872年(明治5年)11月には人身売買禁止令を布告した。
なぜなら商売者たちが田舎の少女たちを誘拐し酒場に売り渡すことで売春が盛上がったためだ。
そのわけで政府は人身売買による公娼制度を中止させ、芸娼技解放令を下ろした。
一連の文章はほぼ90%以上が山崎朋子の本のまとめなので、山崎の本を参考に書く。
当の山崎は1872年、ペルーの奴隷運搬船マリア=ルース号から脱出した清国人苦力の取り扱いをめぐる
国際裁判で裁判長、神奈川県権令大江卓が奴隷解放の判決を下したため、
日本政府は人身売買による公娼精度を止めなければならぬ仕儀に立ち至り、
名目だけの芸娼妓解放令を出したとしている。
>しかしこれはあくまでも明治政府の形式的な展示行為に過ぎなかった。海外渡航許可条令、
人身売買禁止、公娼制度中止、芸娼技解放令などは外面的にはかなり進歩的な
政策のようにみえるが、実際明治政府の本音は違った。需要が多すぎて働かずに
遊んでる芸者と娼婦を海外へ放出するための高度の術数だった。
当の山崎は「表面だけを見れば、新時代に即した進歩的な政策と映るかもしれないが、
実際は、国内で失業した芸娼妓を海外に追いやることにしかならなかったのだ」
としている。結果として、そうなった。
解放された女性たちは元の稼業に収まるか、海外に行くしかなかったとのこと。
もとより明治政府は本心から制度を取り入れたものではなく、お茶を濁す程度のものであった
ものと思われる。また政府は海外からの送金を必ずしも否定的に考えてはいなかったはずだが、
かといって政府の令制定目的そのものを芸娼妓の海外追放に断定していいのかな?
とにかく、一求知か柳在順か知らんが、自分の都合のいいように人の文章を組み立てて、
思うように断言している印象が強い。
以上、山崎朋子「アジア女性交流史」(筑摩書房)参照。
(続き)
中国や東南アジアに追放してしまった。しかし彼らはどこの国に行っても言葉が
通じなく土方、或いは女性は酒を売ったり体を売らなければならなかった。
山崎朋子でさえ「徳川幕府は、その鎖国政策のあいだ、外国人の血の混じった日本人を
邪宗門のレッテルを張って中国や東南アジアに追い払ったが、
彼あるいは彼女等に、言葉も通じない異国においてできることといっては、
肉体労働と春を売ることのほかになかったにちがいない。(アジア女性交流史)」
と推測の形をとっている。
一求知か柳在順か知らんが、ちょっと何でも断言する語調の癖があるらしい。
ちなみに追い払ったのは幕末に始まることではあるまい。
鎖国令(1636年、寛永13年令)の時点で南蛮系287人をマカオに追放、
その後、1639年には「紅毛」系を追放した。
ちなみに、このソースは高校「日本史」の参考書。
また、私はよく知らんが、「少しでも」血が混ざったら追放されたのかな。
シーボルトの娘は?
>実はこの人たちが民間人としては最初、外国に出た人たちである。
それはない。
>1866年(慶応2年)幕府政府は幕府による鎖国令の代わりに海外渡航許可
条令を制定し、1872年(明治5年)11月には人身売買禁止令を布告した。
なぜなら商売者たちが田舎の少女たちを誘拐し酒場に売り渡すことで売春が盛上がったためだ。
そのわけで政府は人身売買による公娼制度を中止させ、芸娼技解放令を下ろした。
一連の文章はほぼ90%以上が山崎朋子の本のまとめなので、山崎の本を参考に書く。
当の山崎は1872年、ペルーの奴隷運搬船マリア=ルース号から脱出した清国人苦力の取り扱いをめぐる
国際裁判で裁判長、神奈川県権令大江卓が奴隷解放の判決を下したため、
日本政府は人身売買による公娼精度を止めなければならぬ仕儀に立ち至り、
名目だけの芸娼妓解放令を出したとしている。
>しかしこれはあくまでも明治政府の形式的な展示行為に過ぎなかった。海外渡航許可条令、
人身売買禁止、公娼制度中止、芸娼技解放令などは外面的にはかなり進歩的な
政策のようにみえるが、実際明治政府の本音は違った。需要が多すぎて働かずに
遊んでる芸者と娼婦を海外へ放出するための高度の術数だった。
当の山崎は「表面だけを見れば、新時代に即した進歩的な政策と映るかもしれないが、
実際は、国内で失業した芸娼妓を海外に追いやることにしかならなかったのだ」
としている。結果として、そうなった。
解放された女性たちは元の稼業に収まるか、海外に行くしかなかったとのこと。
もとより明治政府は本心から制度を取り入れたものではなく、お茶を濁す程度のものであった
ものと思われる。また政府は海外からの送金を必ずしも否定的に考えてはいなかったはずだが、
かといって政府の令制定目的そのものを芸娼妓の海外追放に断定していいのかな?
とにかく、一求知か柳在順か知らんが、自分の都合のいいように人の文章を組み立てて、
思うように断言している印象が強い。
以上、山崎朋子「アジア女性交流史」(筑摩書房)参照。
(続き)
これは メッセージ 1799 (ilkuji_99 さん)への返信です.
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