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江戸前寿司②

投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2004/09/16 17:02 投稿番号: [12444 / 43168]
すし革命をもたらしたのは、文化7年(1810)、本所横網に開店した花屋与平衛というすし屋。
もともとは押しずしで、いろいろ試みた末、文政期に酢でしめた握り飯に魚の切身をのせることを考案。
馴れずし → 早ずし(押しずし)、そして握りずしという即席ものが誕生。
この画期的な発明は、万事せっかちで新奇好みの江戸っ子に拍手喝采(大げさな!)で歓迎された。

手っ取り早い「握りずし」の人気に、上方系の「早ずし(押しずし)」も圧倒され、江戸では握りずし一辺倒になった。
握りずしの人気は各地にとび、文政の末に、押しずしの本場である大坂の道頓堀戎橋南に江戸風の握りずしを売る"松の酢"という店が現われ繁昌した。
天保になると、尾張名古屋でも開業、高知の播磨屋橋の上で握りずし売りがいたという。

元祖与平衛の人気は上がる一方。
"江戸の食い倒れ"といわれた幕末、贅沢に流れ、おごりが世情を支配した。
すしの種にも、より新鮮で高価なものを使用するようになって値がとび、特に深川の "松のすし" は贅沢ずしで名を売り、上流の進物などにも用いられた。
玉子焼はさながら金のごとく、魚は水晶のようだったという。
このため天保の改革にひっかかり、与平衛と"松のすし"は、あまりにも高価なすしを売ったとして手鎖の刑に処せられている。
この時、同罪で手鎖にあったすし屋が、200余人。
すしは一斉に値下げとなって、4文、8文であったが、監視がゆるむとまた元に戻り、20−30文のすしを作る者も出てきた。(『守貞漫稿』)

刑期をおえた与平衛ずしは前にも増す大繁昌で、調子にのった与平衛は、酢飯も宵越しのものは使わぬと称して、毎夜残飯を大川に捨てるのを見栄とし、残飯のない時はわざわざ追炊きして捨てさせたという(『飲食事典』)。

うらやましいですなァ。「娘一人に婿八人」という諺は、「娘一人に八人の婿候補がいる」ということではなく、「七回離婚しても、八回目にはきっと当りになる」というもので、それほど江戸は男あまりの状態が続いた。
だからこそ、花よりダンゴ、即席食品が大いに歓ばれたと。

(以上、永山久夫著「たべもの江戸史」より)
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