疫病と三・一運動
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2007/05/20 03:48 投稿番号: [5760 / 7270]
>>「農民、労働者、地方の人々が参加しこの運動はより過激に、暴力的な形態の運動となり、それに連れて日本の鎮圧も強力になりました〜」
参加者は何らかの不満を抱えていたのは間違いないのでしょうね。
ただ、大勢の抱えるその不満が日本の統治政策が原因なのか、単に標的になっただけなのか・・・(後者のような気がするですけど)
で、その不満といいますか、社会不安の元になりそうな当時の出来事を思い浮かべてみたです。
日本で米騒動がおきたのが影響したのかなあなんぞと・・
(ロシア革命とかの民衆蜂起とからめて留学生の気分も「民族自決」に萌えたり・・w)
じゃあ、米騒動の頃の他の出来事は?と年表を見ましたら〜 ジャーン!!!「1918年スペイン風邪大流行」
↓「スペイン風邪のこと」
http://town-np.jp/emason/index.htm
____________________________________
〜略〜
これらの報道のたびに出てくる「1918年(大正7年)のスペイン風邪」という、当時の「新型インフルエンザ」が私たち一族の歴史に落とした影は大きいものがあります。 当時を覚えておられる方は100歳を超えておられるはずです。
当時、多分30戸程度だったと思われるふるさとの山陰の百姓村は萩の近くの比較的裕福な村だったようです。
ある日、村の誰かが風邪を引き寝込んでから、次々に高熱の風邪が蔓延しました。生前の祖母に聞いた話では、我が家は元気だった父親(私の祖父)が風邪を引き高熱で寝込みました。次いで当時の祖父・祖母が高熱で寝込み、〜略〜
村ではバタバタと亡くなる人が増え、お弔いもままならなくなりました。ついに我が家でも、まず若かった祖父が亡くなり、帰ってきた祖父の弟も亡くなり、老いたジジババ(祖父の両親)は死ななかったものの、幼子を抱えた嫁だけになったようです。村中の半数以上が亡くなり村も大ピンチを迎えました。
残った嫁すなわち私の祖母は、12歳の私の父を関釜連絡船(下関と今の韓国・釜山間の連絡船)の一人旅をさせ京城の叔母一家に預け、残った田んぼは親戚に託し、下の子2人を連れて下関の国鉄機関区に働きに出たようです。いわゆる一家離散です。〜略〜
_________________________________________
↓書評『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』評者・戸部 良一(防衛大学校教授)
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20060403bk06.htm
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〜略〜約九十年前、「スペイン風邪」と呼ばれた新型インフルエンザが世界中で猛威を振るったとき、死者は二千万ないし四千万人に上った。想像を絶する数である。同時期の第一次世界大戦の戦死者をもはるかに上回った。
日本の被害も甚大であった。だが、これに関する本格的な研究はなきに等しかった。被害の大きさすら一定していなかった。著者は歴史人口学の見地からこの問題に果敢に取り組み、大胆な統計学的処理を加えてスペイン・インフルエンザによる死亡者を算出した。推定された死亡者は内地が約四十五万人、植民地等が約二十九万人。ピークの一九一八年十一月だけで死者十三万人を超えた。これだけでも日露戦争の死者を上回り、関東大震災の死者に匹敵する。
著者はさらに、植民地を含む地域ごとに被害の実態を追求する。そこでは各種統計だけでなく、数十紙の新聞記事が縦横に駆使される。これによって、地域ごとの感染・流行の特徴が分析されるとともに、被害の具体的な状況も明らかにされた。例えば、職員の病欠のために市電の本数が減少した。郵便配達の回数が減った。学校の休校、工場等の休業は言うまでもない。棺桶(かんおけ)が不足した。火葬場では遺体の焼却が追いつかなかった。家族全員が死んだり、子供だけが残されたりするケースもあった。本書は数字が語る歴史書としての一面を持つが、ここに集められた新聞記事は、数字だけでは語り尽くせない悲惨な実情を生々しく伝えている。〜略〜
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>「推定された死亡者は内地が約四十五万人、植民地等が約二十九万人。」
「第9章外地における流行」で樺太と朝鮮が取上げられていまがアマゾンの目次表示は不鮮明なんで「朝鮮の累計死者数」は
約「三万」なのか「一二万」なのか、もしかして「二二万」???(こりゃ、買わなきゃならんかなあ・・orz)
まあ、い
参加者は何らかの不満を抱えていたのは間違いないのでしょうね。
ただ、大勢の抱えるその不満が日本の統治政策が原因なのか、単に標的になっただけなのか・・・(後者のような気がするですけど)
で、その不満といいますか、社会不安の元になりそうな当時の出来事を思い浮かべてみたです。
日本で米騒動がおきたのが影響したのかなあなんぞと・・
(ロシア革命とかの民衆蜂起とからめて留学生の気分も「民族自決」に萌えたり・・w)
じゃあ、米騒動の頃の他の出来事は?と年表を見ましたら〜 ジャーン!!!「1918年スペイン風邪大流行」
↓「スペイン風邪のこと」
http://town-np.jp/emason/index.htm
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〜略〜
これらの報道のたびに出てくる「1918年(大正7年)のスペイン風邪」という、当時の「新型インフルエンザ」が私たち一族の歴史に落とした影は大きいものがあります。 当時を覚えておられる方は100歳を超えておられるはずです。
当時、多分30戸程度だったと思われるふるさとの山陰の百姓村は萩の近くの比較的裕福な村だったようです。
ある日、村の誰かが風邪を引き寝込んでから、次々に高熱の風邪が蔓延しました。生前の祖母に聞いた話では、我が家は元気だった父親(私の祖父)が風邪を引き高熱で寝込みました。次いで当時の祖父・祖母が高熱で寝込み、〜略〜
村ではバタバタと亡くなる人が増え、お弔いもままならなくなりました。ついに我が家でも、まず若かった祖父が亡くなり、帰ってきた祖父の弟も亡くなり、老いたジジババ(祖父の両親)は死ななかったものの、幼子を抱えた嫁だけになったようです。村中の半数以上が亡くなり村も大ピンチを迎えました。
残った嫁すなわち私の祖母は、12歳の私の父を関釜連絡船(下関と今の韓国・釜山間の連絡船)の一人旅をさせ京城の叔母一家に預け、残った田んぼは親戚に託し、下の子2人を連れて下関の国鉄機関区に働きに出たようです。いわゆる一家離散です。〜略〜
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↓書評『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』評者・戸部 良一(防衛大学校教授)
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20060403bk06.htm
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〜略〜約九十年前、「スペイン風邪」と呼ばれた新型インフルエンザが世界中で猛威を振るったとき、死者は二千万ないし四千万人に上った。想像を絶する数である。同時期の第一次世界大戦の戦死者をもはるかに上回った。
日本の被害も甚大であった。だが、これに関する本格的な研究はなきに等しかった。被害の大きさすら一定していなかった。著者は歴史人口学の見地からこの問題に果敢に取り組み、大胆な統計学的処理を加えてスペイン・インフルエンザによる死亡者を算出した。推定された死亡者は内地が約四十五万人、植民地等が約二十九万人。ピークの一九一八年十一月だけで死者十三万人を超えた。これだけでも日露戦争の死者を上回り、関東大震災の死者に匹敵する。
著者はさらに、植民地を含む地域ごとに被害の実態を追求する。そこでは各種統計だけでなく、数十紙の新聞記事が縦横に駆使される。これによって、地域ごとの感染・流行の特徴が分析されるとともに、被害の具体的な状況も明らかにされた。例えば、職員の病欠のために市電の本数が減少した。郵便配達の回数が減った。学校の休校、工場等の休業は言うまでもない。棺桶(かんおけ)が不足した。火葬場では遺体の焼却が追いつかなかった。家族全員が死んだり、子供だけが残されたりするケースもあった。本書は数字が語る歴史書としての一面を持つが、ここに集められた新聞記事は、数字だけでは語り尽くせない悲惨な実情を生々しく伝えている。〜略〜
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>「推定された死亡者は内地が約四十五万人、植民地等が約二十九万人。」
「第9章外地における流行」で樺太と朝鮮が取上げられていまがアマゾンの目次表示は不鮮明なんで「朝鮮の累計死者数」は
約「三万」なのか「一二万」なのか、もしかして「二二万」???(こりゃ、買わなきゃならんかなあ・・orz)
まあ、い
これは メッセージ 5759 (trip_in_the_night さん)への返信です.
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