「井筒監督はアホ」
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/04/20 23:59 投稿番号: [5635 / 7270]
窪塚洋介猛反撃「井筒監督はアホ」
石原慎太郎東京都知事(74)が製作総指揮した映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(5月12日公開)のPR会見が19日、大阪市内で行われ、W主演の俳優・徳重聡(28)、窪塚洋介(27)と新城卓監督(63)が出席。特攻隊員を描いた作品で、井筒和幸監督(54)が「戦争の美化」と批判していることに対し、窪塚は「見る前に言うヤツはアホ」と猛反撃に出た!
(以下、略)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070419-00000022-dal-ent
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>「見る前に言うヤツはアホ」
その通りだと思います。
井筒監督及び映画「パッチギ」については、様々な問題点が指摘されていますが、その一例。
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『諸君 2005年 4月号 浅川晃広
「パッチギ!」は朝鮮総連翼賛映画か』(抜粋)
二〇〇五年一月二十二日から公開された映画「パッチギ!」(井筒和幸監督、シネカノン)は、一九六八年の京都を舞台に、朝鮮学校生と日本人高校生との交流を描く物語として位置づけられている。
(中略)
映画は、一九六八年の京都が舞台であることは述べたとおりだが、そこに登場する在日朝鮮人は、日本人から異質化された集団として設定されている。例えば、松山が純粋な気持ちで、日本人とのケンカが遠因となって死亡した友人の朝鮮学校生の葬儀に訪れた際、一世の老人が、トラックに放り込まれて釜山から船で「強制連行」された経験や、「生駒トンネル、誰掘ったか知ってるか!」と、とうとうと説明し「パカタレ! ワシらは、お前らと違うんやぞ!」と怒鳴りつけ、退席を迫るシーンが存在することからしても、「異質化」された側の言い分に、日本人が一方的に服従することを至上命題としていることは明白である。
筆者が、最も違和感を覚えたのは、松山が一目ぼれした朝鮮学校生、キョンジャに近づくために、古本屋で『朝鮮語辞典』を買い、朝鮮語で話しかけようと努力することである。しかし、キョンジャは十七歳の高校二年生であり、日本で生まれ育った在日朝鮮人二世である。このため、母語は明らかに日本語であり、むしろ朝鮮語は、朝鮮学校で後天的に学んだものにすぎない。
(中略)
このことに関する生々しい証言がある。都立朝鮮人学校で行われている教育内容があまりにも偏向していることについて、都立朝鮮人学校の日本人教員による座談会が、読売新聞の主催で開催されている。その報告記事において、ある日本人教員は、次のように述べている。
〈生徒も親も家庭ではたがいに日本語を使っているのに学校では日本人教官が君子、松子をキミコ、マツコと呼ぶと大変なつるし上げにあう、ツンジャー(松子)、クンジャー(君子)と呼ばなければならない、だが家庭ではキミコ、マツコと呼んでいるのだからかなわんね〉(「日本人教官匿名座談会 朝鮮人学校の実態はこうだ 赤い教練の拠点 “公立”を なぜ取り消さぬ?」『読売新聞』一九五二年八月二十四日)
(中略)
それゆえに、映画が、在日朝鮮人と日本人との間の「異質性」が、朝鮮学校によって作為的に生産されているということを明示せず、あたかもその「異質性」を当然の前提としていることは極めて問題である。この「異質化」と朝鮮学校の関係、そしてそこに存在する政治性、イデオロギー性を看過することは、ミスリーディングと言わざるを得ない。
さらに重要なのが、朝鮮学校を考える際、北朝鮮の存在を無視して考えることは絶対にできないことだ。そもそも朝鮮学校とは、北朝鮮の海外公民団体である「朝鮮総連」の学校であり、あくまでも「北朝鮮国民」としての教育が行われる場なのである。
(中略)
映画では、朝鮮学校の校舎には“金日成万歳”云々のスローガンが書かれた垂れ幕が、一度だけ出てくるが、先ほどの「朝鮮語の氾濫」とは不釣合いに、当時校内に氾濫していたはずの金日成賛美の証拠が、ほぼ完全に、実に巧妙に隠蔽されているのだ。拉致問題の発覚以降の日本国内の世論の動向を気にしての“誤魔化し”ではないか。
(中略)-続く-
石原慎太郎東京都知事(74)が製作総指揮した映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(5月12日公開)のPR会見が19日、大阪市内で行われ、W主演の俳優・徳重聡(28)、窪塚洋介(27)と新城卓監督(63)が出席。特攻隊員を描いた作品で、井筒和幸監督(54)が「戦争の美化」と批判していることに対し、窪塚は「見る前に言うヤツはアホ」と猛反撃に出た!
(以下、略)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070419-00000022-dal-ent
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>「見る前に言うヤツはアホ」
その通りだと思います。
井筒監督及び映画「パッチギ」については、様々な問題点が指摘されていますが、その一例。
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『諸君 2005年 4月号 浅川晃広
「パッチギ!」は朝鮮総連翼賛映画か』(抜粋)
二〇〇五年一月二十二日から公開された映画「パッチギ!」(井筒和幸監督、シネカノン)は、一九六八年の京都を舞台に、朝鮮学校生と日本人高校生との交流を描く物語として位置づけられている。
(中略)
映画は、一九六八年の京都が舞台であることは述べたとおりだが、そこに登場する在日朝鮮人は、日本人から異質化された集団として設定されている。例えば、松山が純粋な気持ちで、日本人とのケンカが遠因となって死亡した友人の朝鮮学校生の葬儀に訪れた際、一世の老人が、トラックに放り込まれて釜山から船で「強制連行」された経験や、「生駒トンネル、誰掘ったか知ってるか!」と、とうとうと説明し「パカタレ! ワシらは、お前らと違うんやぞ!」と怒鳴りつけ、退席を迫るシーンが存在することからしても、「異質化」された側の言い分に、日本人が一方的に服従することを至上命題としていることは明白である。
筆者が、最も違和感を覚えたのは、松山が一目ぼれした朝鮮学校生、キョンジャに近づくために、古本屋で『朝鮮語辞典』を買い、朝鮮語で話しかけようと努力することである。しかし、キョンジャは十七歳の高校二年生であり、日本で生まれ育った在日朝鮮人二世である。このため、母語は明らかに日本語であり、むしろ朝鮮語は、朝鮮学校で後天的に学んだものにすぎない。
(中略)
このことに関する生々しい証言がある。都立朝鮮人学校で行われている教育内容があまりにも偏向していることについて、都立朝鮮人学校の日本人教員による座談会が、読売新聞の主催で開催されている。その報告記事において、ある日本人教員は、次のように述べている。
〈生徒も親も家庭ではたがいに日本語を使っているのに学校では日本人教官が君子、松子をキミコ、マツコと呼ぶと大変なつるし上げにあう、ツンジャー(松子)、クンジャー(君子)と呼ばなければならない、だが家庭ではキミコ、マツコと呼んでいるのだからかなわんね〉(「日本人教官匿名座談会 朝鮮人学校の実態はこうだ 赤い教練の拠点 “公立”を なぜ取り消さぬ?」『読売新聞』一九五二年八月二十四日)
(中略)
それゆえに、映画が、在日朝鮮人と日本人との間の「異質性」が、朝鮮学校によって作為的に生産されているということを明示せず、あたかもその「異質性」を当然の前提としていることは極めて問題である。この「異質化」と朝鮮学校の関係、そしてそこに存在する政治性、イデオロギー性を看過することは、ミスリーディングと言わざるを得ない。
さらに重要なのが、朝鮮学校を考える際、北朝鮮の存在を無視して考えることは絶対にできないことだ。そもそも朝鮮学校とは、北朝鮮の海外公民団体である「朝鮮総連」の学校であり、あくまでも「北朝鮮国民」としての教育が行われる場なのである。
(中略)
映画では、朝鮮学校の校舎には“金日成万歳”云々のスローガンが書かれた垂れ幕が、一度だけ出てくるが、先ほどの「朝鮮語の氾濫」とは不釣合いに、当時校内に氾濫していたはずの金日成賛美の証拠が、ほぼ完全に、実に巧妙に隠蔽されているのだ。拉致問題の発覚以降の日本国内の世論の動向を気にしての“誤魔化し”ではないか。
(中略)-続く-
これは メッセージ 1 (yusura_sdhk さん)への返信です.
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