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Re: 「百人斬り競争」訴訟

投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2006/05/26 00:29 投稿番号: [4057 / 7270]
>1937年、当時の中国の首都・南京へと殺到する日本軍がひきおこした南京大虐殺事件は、侵略戦争の狂気を今に伝えています。

まず、何をもってして「大虐殺」と言い切るのか。
その根拠は?
・ドイツ・フランクフルター紙の特派員で陥落直前南京を脱出したリリー・アベック女史「南京脱出記」(昭和13(1938)年・2)より。
自分の脱出時には、「漸(ようや)く、15万人を数ふる小都市に成り下がっていった」とある。
・南京戦にて捕虜となった国府軍・張群思少佐は「南京衛戊軍の兵力数5万、非戦闘員10万」を陳述。
・同じく捕虜となり、のち汪兆銘政府の軍官学校長に就任した劉啓雄少将(当時雨花台陣地を守備した旅長)は、「概(おおむ)ね20万」と陳述。
・米ライフ紙(1937.12)は「日本軍は15万人の南京市民が避難した安全区をちょっぴり可愛がった」と掲載。
南京戦開始前の人口は、概ね12〜15万人。

・南京安全区国際委員会が、日本大使館その他米・英・独大使館等にあてた61通の公文書より、南京の人口は、
昭和12(1937)年の12月17日、21日、27日にはそれぞれ20万と記載。
翌年1月14日になると5万人増加して25万。
2月末には25万。
1937年12月10日以前の人口「12〜15万人」
戦闘終了(1937年12月14日)直後(3日後)の人口「20万人」

まずはこの「基本的な『矛盾』」、即ち「大虐殺が行われた『はずの』南京に、『大虐殺を行った』日本軍が居るのも関わらず、大規模な人口流入が有った訳」を明示して欲しいものです。

あと、「虐殺数30万(以上)」の矛盾も。(12〜15万人しか居ないのに、どうやって倍以上を?)

>日本の敗戦後、南京で開かれた軍事法廷で二人の将校は死刑に処せられます。侵略の戦場における狂気の象徴ともいえるこの殺人競争を現在に紹介したのが、ジャーナリストの本多勝一氏が書き、朝日新聞社が掲載したルポルタージュ『南京への道』でした。

向井少尉、野田少尉の所属師団は第16師団。
第16師団(上海派遣軍)は1937年12月1日時点で無錫−湖州の攻勢限界線を越えていません。
*南京攻略が大本営より上海派遣軍に下命されたのが、12月1日。

そして、12月12日には150km離れた南京まで強行軍(国府軍の後退戦闘を突破しつつ)しています。
大隊長副官、大隊歩兵砲小隊長の配置の二人が、新聞報道や「望月」氏の私本記述のような「暇な事」をする暇があったか、
当時の大隊副官、歩兵砲小隊指揮官の戦闘・戦時行軍要務を踏まえ、立証頂きたい。

更には東京日々新聞の報道内容「1937年11月29日付」記事の矛盾。
第16師団第19歩兵旅団(草場辰巳少将(20期)第9連隊、第20連隊)は、「1937年11月27日」には、無錫西方(無錫から南京への攻略途中路)50kmの常州に到達しているとあるが。
11月27日には未だ第19歩兵旅団は無錫に居た。
無錫進発は12月1日。常州到着は12月3日。
この矛盾は?
(*第19歩兵旅団第9連隊第3大隊が、向井少尉、野田少尉の所属部隊)

従兵を交換、とあるが。
専属従兵が付くのは大隊長以上。
中隊長以下は従兵は「将校団(各部隊=大隊以上の部隊、での各級将校の単位)」で何名、という振分け。
将校3〜4名に従兵1名が普通。
他の将校の同意なく、且つ、大隊先任下士官(特務曹長級。少尉風情では頭が上がらない)の了解なく「従兵を変更」は「不可能」
この「矛盾」

色々な意見があり、様々な証言があるが。
あなたの立場側の「証言」は、当時の軍行動、戦闘記録、軍要務、等々の面から見れば、様々な「矛盾の宝庫」なのだが・・・
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